伊藤 智仁東京ヤクルトスワローズ 投手コーチ #89
楽天コーチ時代
(2019年、ZOZOマリンスタジアムにて)
基本情報
国籍 日本
出身地京都府京都市中京区
生年月日 (1970-10-30) 1970年10月30日(53歳)
身長
体重183 cm
76 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1992年 ドラフト1位
初出場1993年4月20日
最終出場2001年4月10日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
花園高等学校
三菱自動車京都
ヤクルトスワローズ (1993 - 2003)
監督・コーチ歴
ヤクルトスワローズ
東京ヤクルトスワローズ (2004 - 2017)
富山GRNサンダーバーズ (2018)
東北楽天ゴールデンイーグルス (2019 - 2020)
東京ヤクルトスワローズ (2021 - )
国際大会
代表チーム 日本
五輪1992年
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伊藤 智仁(いとう ともひと、1970年10月30日 - )は、京都府京都市中京区出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)、コーチ、監督。現在は東京ヤクルトスワローズ一軍投手コーチ。
バルセロナオリンピック野球の銅メダリスト。 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 子供の頃から読売ジャイアンツのファンで、子供の頃年1で連れて行ってもらう甲子園の巨人戦が楽しみだった[1]。 京都市立中京中学校から花園高に進学。花園高校の1987年秋季近畿大会に進むが、1回戦で元木大介、種田仁らのいた上宮高に敗退。卒業後は地元の三菱自動車京都に入社。 1992年のバルセロナオリンピック野球日本代表に選出され、1大会27奪三振のギネス記録を作る。アメリカとの3位決定戦でも先発し、日本の銅メダル獲得に貢献した。対戦したアメリカの首脳陣から、「今すぐ米国に連れ帰りたい」、「メジャーでもエースになれる逸材」と絶賛された[2]。 同年のドラフト会議ではヤクルトスワローズ、広島東洋カープ、オリックス・ブルーウェーブの3球団が1位指名、抽選の結果ヤクルトが交渉権を獲得し入団契約を交わす。ちなみに、当初は松井秀喜を一位指名する予定だったが、スカウト会議の際野村が伊藤の獲得を強く希望し指名に至った。野村とスカウト陣は松井か伊藤のどちらかを指名するのか揉めたという(逆に巨人も松井と伊藤のどちらかで揉めたという[3])。入団時の背番号は20。同音異字の苗字の投手である伊東昭光と区別するため、背ネーム表記は「T.ITOH」となった。 1993年、春季キャンプから即戦力として期待されたが、オープン戦では5試合を防御率5.00[4]と結果を残せず、開幕を二軍で迎えることとなった。4月10日のイースタン・リーグ開幕戦(高知・春野)では同年ドラフト1位で巨人入りした松井秀喜から本塁打を打たれて敗戦投手。一軍昇格後の4月20日の対阪神タイガース戦で一軍初先発で初登板し7回を10奪三振2失点で勝利投手となる[5]。150km/hを超えるストレートと真横に滑るような高速スライダーを武器に投球回を上回る三振を奪い、前半戦だけで7勝2敗・防御率0.91の成績を挙げる。6月9日の石川県立野球場での対巨人戦では8回まで無失点、更にセ・リーグタイ記録である16奪三振を挙げるが、0-0で迎えた9回裏の二死から篠塚和典にソロ本塁打を打たれサヨナラ負けを喫する[注 1][6][7][8]。ベンチに引き上げる際、あまりの悔しさに自軍ベンチに向かって自分のグラブを投げ感情を露にした。この日は調子が悪く、5回あたりで既にバテていたことを後のインタビューで明かしている[9]。なお「負け試合における」1試合16奪三振はこのケースが初めてである[10]。7月4日の登板を最後に戦線離脱[注 2]。
来歴・人物
出典検索?: "伊藤智仁"
プロ入り前
現役時代