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いとう まさや
伊藤 昌哉
生誕 (1917-11-21) 1917年11月21日
南満洲大石橋(現:中国遼寧省大石橋市)
死没 (2002-12-13) 2002年12月13日(85歳没)
東京都
死因心不全
国籍 日本
出身校東京帝国大学法学部
職業ジャーナリスト、秘書官、政治評論家
親伊藤 謙次郎
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伊藤 昌哉(いとう まさや、1917年(大正6年)11月21日 - 2002年(平成14年)12月13日)は、日本の政治評論家。満洲生まれ。池田勇人内閣総理大臣の秘書官を経て、政治論壇や宏池会で活動した。愛称は「ブーちゃん」。池田内閣の影の官房長官と呼ばれた[1]。 南満洲大石橋(現:中国遼寧省大石橋市)生まれ。奉天中学、旧制一高を経て、1942年に東京帝国大学法学部卒業。1943年11月に新京陸軍経理学校卒業。卒業後、経理部将校として終戦まで従軍した。母と妹のいる満洲に向かうため湖南省長沙で現地除隊となり、北上する。しかし湖北省漢口で日本人は旧日本租界に設けられた集中区と呼ばれる一角に収容され、しばらく収容日本人向けの商売で食いつないだ後、上海から福岡市に送還される。福岡では半年ほど居候した後に当地のブロック紙である西日本新聞社に入社し、ただちに東京支社勤務を命じられる。東京でもはじめは居候で、遅れて引き揚げてきた母と妹との同居もままらなかった。 当初の伊藤は経済記者であり、商工省担当時代に、1949年の衆院選に出馬していた池田勇人の自宅に押しかけて面識を得る。当選後の池田が大蔵大臣になると伊藤も大蔵省担当となるが、この時期、記者会見以外で記者に情報を流させない池田と記者団との関係は険悪で、伊藤との関係も例外ではなかった。1951年に伊藤は池田の属する吉田自由党担当の政治記者となるが、この頃になると池田は記者との関係構築を重視し、中でも伊藤に重要な情報を与えるようになった。伊藤は1954年元旦に政治部デスクとなるが、この年の暮れに吉田自由党は下野して池田も干された状態になり、伊藤は1956年に福岡本社の整理部への転属となる。政治記者に復帰する見通しがつかなかった伊藤は退社し、1958年4月に宏池会職員という身分で池田の私設秘書のような形となる。同年6月に池田が第2次岸内閣の無任所大臣になると、伊藤は大臣秘書官となる。1960年に池田が総理大臣に就任すると首席秘書官となる。伊藤はスピーチライターとして池田の演説の草稿を執筆する。 伊藤の起草として有名なものには同年の浅沼社会党委員長刺殺事件における衆議院での追悼演説[2]がある。「議場がシーンとしてしまうような追悼文」という要望を池田から受けた伊藤は、浅沼について急遽資料を集めたり社会党担当の新聞記者に訊くなどし、詩の部分は日本経済新聞の自伝連載コーナー『私の履歴書』の浅沼の回[3]から引用した。
来歴・人物
一家引き揚げまで
池田との関係