伊藤整
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ジャーナリストの「伊藤正」とは別人です。

この項目では、作家について記述しています。プロデューサーの同名の人物については「伊藤整 (プロデューサー)」をご覧ください。

伊藤 整
(いとう せい)
1954年
誕生伊藤 整(いとう ひとし)
1905年1月16日
日本北海道松前郡炭焼沢村
(現:松前町
死没 (1969-11-15) 1969年11月15日(64歳没)
日本東京都豊島区上池袋
墓地小平霊園
職業小説家文芸評論家
言語日本語
国籍 日本
最終学歴東京商科大学(現・一橋大学)中退
活動期間1926年 - 1969年
ジャンル小説文芸評論翻訳
文学活動無頼派(新心理主義)
チャタレー事件
代表作『雪明りの路』(1926年、詩集)
『得能五郎の生活と意見』(1941年)
『小説の方法』(1948年、評論)
『若い詩人の肖像』(1956年)
氾濫』(1958年)
『変容』(1968年)
『日本文壇史』(1953年 - 1973年、評論・中絶)
主な受賞歴菊池寛賞(1963年)
日本芸術院賞(1967年)
勲三等瑞宝章(1969年)
日本文学大賞(1970年)
デビュー作『雪明りの路』(1926年)
子供伊藤滋長男
伊藤礼二男
親族星野之宣(又甥)
室田瑞希(曽姪孫)
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伊藤 整(いとう せい、1905年明治38年)1月16日 - 1969年昭和44年)11月15日)は、日本小説家詩人文芸評論家翻訳家。本名:伊藤整(いとう ひとし)。

抒情派詩人として出発したが、その後詩作を離れて小説評論に重心を移し、ジェイムズ・ジョイスらの影響を受けて「新心理主義」を提言。戦後は旺盛な著作活動に加え、ベストセラーや裁判の影響もあり、もっとも著名な評論家の一人となった。私小説的文学の理論化をめざすとともに自身も創作を行い、評論では『小説の方法』「近代日本人の発想の諸形式」「近代日本における『愛』の虚偽」『日本文壇史』などがあり、『氾濫』『変容』『発掘』は、夏目漱石の衣鉢を継ぐ近代小説三部作である。

社団法人日本文藝家協会理事東京工業大学教授、社団法人日本ペンクラブ副会長、財団法人日本近代文学館理事長などを歴任した。日本芸術院会員。位階正五位勲等勲三等
生涯
詩人としての出発

北海道松前郡炭焼沢村(現松前町)で小学校教員の父伊藤昌整と母タマ(旧姓鳴海)の間に、姉1人と弟妹10人の12人兄弟の長男として生まれた。父は広島県高田郡粟谷村(現三次市)出身で、教導団出身の陸軍少尉だったが、日清戦争出征後、海軍の水路部測量員(灯台看守兵)に志願して北海道に渡った[1]。まもなく辞職して白神尋常高等小学校の教員となり、整が生まれた年に父は日露戦争出征で203高地で重傷を受けて帰国し、旭川の官舎に移る。1909年に父は塩谷村(現小樽市)村役場書記となり、塩谷村へ移る。

旧制小樽中学(北海道小樽潮陵高等学校の前身)を経て小樽高等商業学校小樽商科大学の前身)に学ぶ。中学3年生の時に、2年先輩の鈴木重道(北見恂吉)の影響で詩に関心を持ち[2]、級友と同人誌『踏絵』を発行。小樽高商在学中の上級生に小林多喜二高濱年尾がおり、一緒にフランス語劇に出演したこともある。卒業後、旧制小樽市立中学の英語教師に就任。1923年に友人川崎昇(左川ちかの兄)と同人誌『青空』発行。1926年に百田宗治主宰の『椎の木』に手紙を出して同人となり、自費出版した抒情詩詩集『雪明りの路』で百田宗治、三好達治に高く評価された。小樽で教員を続けながら、1928年に河原直一郎、川崎昇と同人誌『信天翁』刊行。宿直室に泊まり込んで下宿代を浮かせたり、夜間学校の教師の副職をするなどして、1300円の貯金を蓄え、2年後に教師を退職し上京し、北川冬彦、仲町貞子らと同居。
小説と評論

1927年旧制東京商科大学一橋大学の前身)本科入学内藤濯教授のゼミナールに所属し、フランス文学を学ぶ。また北川冬彦の紹介で入った下宿屋にいた梶井基次郎三好達治瀬沼茂樹らと知り合い親交を結び、瀬沼茂樹の主催していた『一橋文芸』に短編小説を寄稿し[3]、瀬沼とはその後も生涯にわたって親交を結んだ[4]。また河原、川崎と批評誌『文芸レビュー』刊行、処女小説「飛躍の型」を同誌に発表、続いて「鸚鵡」「パルナス座」「繭」などを発表。1930年には小説「送還」「感情細胞の断面」を川端康成に推奨された他、評論「文学領域の移動」「ジェイムス・ジョイスのメトオド『意識の流れ』に就いて」などを『文芸レビュー』『詩・現実』『新科学的』各誌に発表。また小川貞子と結婚、『科学画報』に掲載した小説「潜在意識の注意」で初めて原稿料を手にし、ジョイス『ユリシーズ』の翻訳を永松定辻野久憲と『詩・現実』に連載[5]

1931年に20世紀文学の翻訳に力点を置いた『新文学研究』を編集し金星堂から発行、東京商科大を退学し、『文芸レビュー』『風車』の同人と『新作家』を創刊。1932年に処女評論集『新心理主義文学』で、ジェイムズ・ジョイスやヴァージニア・ウルフらの影響による「新心理主義」を提言し、川端康成横光利一など当時の文壇にも影響を与え、自身も実験作『生物祭』『イカルス失墜』などを執筆し、一連の作品は文芸評論で批判にも晒されたが、吉本隆明は現代文学体の代表作として横光利一「機械」と並ぶものと評している[6]

1935年から1944年まで日本大学芸術科講師。1935年にD・H・ローレンスの『チャタレイ夫人の恋人』を翻訳して刊行。また書下し長編小説『青春』(1938年)、『霧氷』『典子の生き方』(1939年)、戦時下において私小説の手法を逆用して自己韜晦によって社会を風刺する[7]『得能五郎の生活と意見』(1940年)などを発表。1939年に近藤春雄荒木巍福田清人高見順と「大陸開拓文芸懇話会」を発足し、拓務省の補助金を得て満州北支に視察旅行を行い、これを基にした旅行記や短編小説「息吹き」執筆[8]。1940年には文壇新体制の動きに応じて日本文学者会の発起人の一人となった[9]

1944年から1945年新潮社文化企画部長、1944年旧制光星中学校(現札幌光星高等学校)英語科教師。1945年に北海道の妻の実家に疎開、帝国産金株式会社落部ベニヤ工場勤務。戦後1946年に北海道帝国大学予科講師となるが、7月に上京、南多摩郡日野町に土地を買って山小屋風の家を建てて住み、「鳴海仙吉の朝」などを発表。1948年に鳴海仙吉ものを集めて長編『鳴海仙吉』として八雲書店に原稿を渡したが、印刷屋により差し押さえられて出版不能となり、新たな書き直しを行なって1950年に細川書店より刊行、インテリ層と文壇の実体についての自虐と風刺により新戯作派の作家ともみなされた[10]
伊藤整ブーム

1948年日本文芸家協会理事、1949年から1950年早稲田大学第一文学部講師、1949年東京工業大学専任講師(英語)、日本ペンクラブ幹事。1950年には『チャタレイ夫人の恋人』の完訳版を小山書店から刊行し、上下巻で20万部の売れ行きとなったが、わいせつ文書として押収され、小山久二郎とともに起訴された。この裁判の一審と平行して発表されたエッセイ『伊藤整氏の生活と意見』や、チャタレイ裁判のノンフィクション『裁判』も話題となり、1953年に『婦人公論』に連載したローレンスの思想などを紹介した戯文エッセイを、翌年『女性に関する十二章』として一冊に纏めたところベストセラーとなり、同名の映画(市川崑監督)に本人もナレーション・端役で出演、「○○に関する十二章」という書物の出版が相次ぐなど「十二章ブーム」を巻き起こし、また新書版ブームの口火ともなった[11]。この頃から原稿や講演の注文が殺到し、長編小説『火の鳥』も好評で、『読売新聞』年末の「1953ベストスリー」の記事では、評者10人のうち9人に選ばれている。1954年のベストセラーのうち、1位『女性に関する十二章』、3位『火の鳥』、5位『文学入門』を占め、評論『文学と人間』[12] などベストセラーとなり[13]、合わせて年間70万部を売り上げたという[14]。1953年の文壇高額所得番付でも8位となっている。

1954年に杉並区久我山に転居。1956年には『文学界』新人賞石原慎太郎太陽の季節』を強く推して議論を巻き起こした[15]。1958年東京工業大学教授昇格、パリで行われた国際ペンクラブ執行委員会で発表、その後タシュケントアジア・アフリカ会議ロンドンのイギリス・ペンクラブ例会に出席、ミュンヘンウィーンイタリアなどを旅して、1959年帰国。1960年から招聘されてコロンビア大学およびミシガン大学で講義。帰国後、平野謙による「純文学歴史説」や、松本清張水上勉らの社会派推理小説の流行に刺激され、「『純』文学は存在し得るか」を発表、「純文学論争」を引き起こした。
晩年日本近代文学館設立に尽力した(東京都目黒区駒場公園内)

1962年日本ペンクラブ副会長、また小田切進高見順らと日本近代文学館設立運動を始め、設立時の理事となり、初代高見順の後を受けて1965年から理事長。1963年『日本文壇史』により菊池寛賞受賞。1964年東京工業大学を退職、1967年日本芸術院賞受賞[16]、1968年日本芸術院会員。1966年の北海道文学展や、1967年に北海道立文学館設立にも協力[17]

1969年に腸閉塞で入院、手術し、胃癌の診断を受け再入院、11月15日、癌性腹膜炎のため東京都豊島区上池袋がん研究会附属病院で死去[18]青山斎場で告別式が行われ、戒名は海照院釈整願。叙正五位、叙勲三等瑞宝章。『変容』に続く作品として『日暮れ』の腹案が準備されていた[19]


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