伊藤律
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伊藤律

伊藤 律(いとう りつ、1913年6月27日 - 1989年8月7日)は、日本の政治運動家、元日本共産党政治局員。岐阜県土岐郡土岐村市原(現・瑞浪市)出身(広島県生まれ[1])。幼名は、恵一。中国名は、顧青。
生涯
共産青年同盟時代まで

父・連次郎の勤務先である広島で生まれた[1]。間もなく父の故郷岐阜県瑞浪に戻る[1]。幼少期から神童の誉れが高かったといわれ、旧制岐阜県立恵那中学校(現・岐阜県立恵那高等学校)4年生修了後、1930年第一高等学校(現・東京大学教養学部)に入学する(飛び級入学。いわゆる「四修進学」)。同期に後に作家となる杉浦明平がいた。杉浦の後年の回想では、入学の時点で伊藤はすでに社会主義に関心を持ち、1年生から読書会を主催していたという[2]。2年生の1931年初秋に共産青年同盟に加盟し、国際反帝反戦同盟東京委員会印刷局に加入[3]。この頃は昼は学校と家庭教師のアルバイトをこなし、夜に組織の印刷物を作成・配布する生活を送っていた[3]。伊藤は、特別高等警察(特高)によって壊滅した一高の共産青年同盟を再建する任務に当たったが、やがて当局の察知するところとなり、1932年9月に地下に潜行、12月に放校処分を受ける[3]。伊藤は東京城西地区の大学へのオルグ活動を担当する。特に東京商大(現・一橋大学)では「籠城事件」後の学生の盛り上がりに伊藤の活動が加わり、学内の共産青年同盟は60人の規模に伸張した[4]。しかし、1933年2月には特高の検挙で東京商大の組織は壊滅状態となった。

同じ2月に伊藤は共産青年同盟の中央事務局長となり、3月13日に正式に日本共産党に入党した[5]。だが、同年5月16日に検挙され、大崎警察署に検束される。伊藤の共産党入党は三船留吉・今井藤一郎の推薦によるものだったが、この二人は特高のスパイであり、検挙も三船が手引きした結果だった[6]。市谷刑務所・豊多摩刑務所へと移送され、予審が終了した1934年12月25日に保釈された。1935年4月16日、東京地方裁判所懲役2年執行猶予3年の有罪判決を受ける。この取り調べで転向を表明するが、取り調べた特高の宮下弘はそれを認めずに起訴して検察に送ったと後に述べている[7]
共産党再建活動と再度の検挙

判決後の5月に伊藤は親族の伝手で大阪府堺市にあった三菱鉱業系列の堺化学工業という工場に臨時雇員として就職する[8]。ここで働いたのは5ヶ月間であったが、その間に社外工を組織した[9]。労働の現場に初めて入った伊藤は、親しい知人への手紙で「我々の頭の中で考えていることが如何に抽象的で、一面的で、ある場合には子供っぽくさえあるかを痛感します」「僕は一切の感覚を働かせて、ねばり強い辛抱をもってこの生産点から本当に大切なものを摂取しようと努力しています」と記している[10]

このあと伊藤は1936年2月に東京帝国大学経済学部助教授の土屋喬雄の研究室で、日本の農業経済史の研究に携わった[5]。この年の7月に最初の結婚。秋、一高同期生の兄で活動家だった長谷川浩と知り合い、翌1937年8月に長谷川と伊藤は共産党の再建活動に入った。二人は人民戦線戦術を採用して、街頭ではなく職場を中心とした活動をおこなう方針を決めた[11]。伊藤は工場などに組織を作る活動をおこなうが、その過程で世田谷区池尻で活動していた文芸サークル「街」に接触した。これはこのサークルに工場労働者が多くいたためで、文芸サークルから労働者組織への転換を指導した[12]。9月、「街」のリーダーだった青柳喜久代(1914年 - 1968年、戦後中野区議会議員)から青柳の叔母(母の妹)に当たる北林トモを「アメリカ帰りのおばさん」として紹介され、名前を知らないまま二度会っている。伊藤は長谷川と相談し、北林は言動などから諜報組織に所属しているかもしれず、運動にマイナスになるという理由で手を切った[注釈 1][13]

1938年、全国購買組合東京支所に就職し、全国の農村調査をおこなった。土屋喬雄の下での研究と合わせて養われた伊藤の農業への造詣は、のちの経歴に生かされることになる。1939年8月に南満州鉄道に入社。東京支社調査室嘱託となり、前職の経歴を買われて農村事情の調査をおこない、社内誌に論文を発表している。しかし、以前に伊藤がオルグした東京商大のOB・学生による社会主義運動のグループが摘発され、彼らと面識のあった伊藤も同年11月11日に再度検挙を受けることとなった。この検挙は特高の宮下弘が放ったスパイによるものだった[14]
終戦まで

検挙された伊藤は商大グループとの関係を否定し続けたまま年を越し、その間に肺浸潤に罹患した。だが、1940年6月に拷問とともに「本筋を言え!長谷川らはどうした」と迫られ、他の仲間にも検挙の手が及んだことを悟り、供述に応じることとなった[15]。同時期に検挙された「街」グループについても尋問を受けたが、すでにこのグループが1937年11月に一度検挙後、不起訴で釈放されていたため「供述は気楽であった」と後年回想している[16]。伊藤は彼らから紹介されたのは誰かという訊問の中で、青柳喜久代から「アメリカ帰りのおばさん」を紹介されて二度会ったと気軽に供述したという[16]。警察に提出する手記を書いた後の8月、警察医の診断により、「長谷川の取り調べが終わるまで」という条件で拘留一時停止となり、9月末に満鉄に復職する。伊藤は以前に執筆した論文で同じ満鉄調査室嘱託だった尾崎秀実から評価を得ていたが、復職後は出身地が近いこともあって家族ぐるみでの親交を深めることになった。12月、すでに内縁の関係にあった松本キミとの婚姻届を出す[17]。伊藤は満鉄の社内誌に農業問題に関する論文を相次いで発表した。

1941年9月29日、久松警察署に身柄を拘束される。これは長谷川浩らの調査が終了して書類送検の段階に達したためで、上記の通り予定されていたものだった[18]。送検調書を取られ、通常なら起訴・拘置所に送致となるはずが、1ヶ月近く留め置かれる。伊藤の回想では、10月18日(尾崎秀実はその数日前にゾルゲ事件の容疑で逮捕されていた)に特高の刑事から「おまえはソ連のスパイではないか、よくもだましたな」と拷問を受け、そこで初めて尾崎秀実の逮捕容疑を知らされる[19]。その2日後、刑事から「アメリカ帰りのおばさん」の名前が北林トモであること、北林が宮城与徳と連絡があり、宮城から尾崎秀実やリヒャルト・ゾルゲの名前が出たことを知らされ、尾崎秀実や北林との関係についての補足手記を書くように求められた[19]。伊藤にとって隠すことではなかったためその事実を記したところ、特高側から「(前年に書いた本文と)手記の日付がバラバラでは具合が悪いので、本文同様に1940年7月末に統一しておけ」と言われる。伊藤はスパイ容疑による尾崎秀実の逮捕という事態に動揺していたため、これに従ったという[19]

1942年6月4日に予審が終了し、東京地裁の公判に回される。6月28日、約9ヶ月ぶりに保釈された。12月に一審判決(懲役4年、未決通算260日)を受けたが、下獄をできるだけのばすため長谷川とともに上告し、1943年11月に再審判決で懲役3年未決通算260日となる。懲役が1年短くなったのは、1審判事のミスで「執行猶予中の再犯」と認定されていたものが、実は僅かな差で執行猶予期間外であったことが判明したためである[20]。同年12月から巣鴨拘置所に服役し、翌年春に豊多摩刑務所に移されて終戦を迎える。この間、1943年8月1日には公判被告にもかかわらず召集令状が届き、取り消しとなる珍事もあった[注釈 2][21]。巣鴨時代には死刑判決を受けた尾崎秀実ともわずかながら話をする機会があったが、そのやせ衰えた姿に胸を痛めたという[22]


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