伊藤大輔_(映画監督)
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いとう だいすけ
伊藤 大輔

生年月日 (1898-10-13) 1898年10月13日
没年月日 (1981-07-19) 1981年7月19日(82歳没)
出生地 日本愛媛県北宇和郡宇和島町元結掛(現・宇和島市元結掛)
死没地 日本京都府
民族日本人
職業映画監督脚本家
ジャンル映画
活動期間1924年 - 1971年
活動内容1920年松竹キネマ俳優学校に入学
1924年:監督デビュー
1925年:伊藤映画研究所を設立
1926年日活に入社
配偶者大久保清子
主な作品
忠次旅日記
斬人斬馬剣

 受賞
ブルーリボン賞


監督賞

1961年反逆児

その他の賞
牧野省三
1963年

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伊藤 大輔(いとう だいすけ、1898年明治31年)10月13日 - 1981年昭和56年)7月19日)は、日本映画監督脚本家である。時代劇映画の基礎を作った名監督の一人であり、「時代劇の父」とも呼ばれる。
来歴
映画監督へ

1898年(明治31年)10月13日[1]愛媛県宇和島市に中学校教師の父・朔七郎と母・寿栄の息子として生まれる。

1911年(明治44年)、旧制松山中学(現・愛媛県立松山東高等学校)に入学。この時に雑誌『白樺』の影響を受けて、同窓の伊丹万作中村草田男重松鶴之助らと回覧雑誌『楽天』を発行。文才のある伊藤が文章を書き、画才のあった伊丹が挿絵を描き[2]、中村、重松らと文筆を競った。中学卒業後、父逝去のため進学を諦め、呉海軍工廠製図工として勤務する[3]

1920年(大正9年)、呉工廠内で宮地嘉六が主宰する演劇グループに参加したため、労働組合との関係を疑われて同社退社[4]。やむなく文通していた小山内薫を頼って上京。伊丹万作と同居生活をしながら、2月に創立された松竹キネマ付属の松竹キネマ俳優学校(小山内が主宰)に入る[5]。同年、小山内薫の推薦を受けて、田中欽之監督・ヘンリー・小谷撮影の『新生』のシナリオを執筆する。以降松竹蒲田撮影所で50本以上の脚本を書いたあと、1923年(大正12年)に帝国キネマ芦屋撮影所に移って20本以上のシナリオを執筆する。

1924年(大正13年)、国木田独歩原作の『酒中日記』で監督デビュー。同年、『剣は裁く』が時代劇第1作となる。

1925年(大正15年)、東邦映画製作所に入社して同社第1作の『煙』を監督・脚本するが、この1作きりで退社し、伊藤映画研究所(伊藤大輔プロダクション)を設立、稲垣浩岡田時彦らが研究生として所属した[6]。設立第1作の『京子と倭文子』や『日輪』三部作を監督するが独立自体は失敗に終わる。
時代劇の名監督へ

1926年(昭和元年)、日活太秦撮影所に移り、まだ新人だった大河内傳次郎とコンビを組み、『長恨』、『流転』などの時代劇作品を監督、激しい乱闘シーンやアメリカドイツソ連など外国映画の影響を受けた大胆なカメラワークで注目を浴びる。さらに1927年(昭和2年)、映画史上に残る「金字塔」と称される傑作『忠次旅日記』三部作を発表。一躍映画界を代表する存在になり、後世に大きな影響を与えた。この年監督した河部五郎主演の『下郎』も名作に数えられ、撮影の唐沢弘光と初めてコンビを組んだ。長恨(1926)大河内傳次郎との提携第1作新版大岡政談(1928)丹下左膳を初めて映画化した名作

『忠次旅日記』で伊藤大輔、大河内伝次郎、唐沢弘光の3人が初めて顔を合わせ、ここに「ゴールデントリオ」が生まれた。以降サイレント末期の日本映画界をリードする旗手となり、この3人のコンビによって『素浪人忠弥』『興亡新撰組』(以上1930年公開)、『侍ニッポン』『御誂次郎吉格子』(以上1931年公開)など多くの時代劇の傑作を誕生させた。

1928年(昭和3年)、『新版大岡政談』で、大河内に隻腕隻眼の怪剣士「丹下左膳」を演じさせ、スピード感溢れる展開が大人気となり「大河内傳次郎の丹下左膳」の人気を不動のものとした。以来、『続大岡政談 魔像篇第一』(1930年)や『丹下左膳 第一篇』など大河内主演で一連の丹下左膳シリーズを連発した。

1929年(昭和4年)、市川右太衛門プロダクションで『一殺多生剣』を、松竹京都撮影所月形龍之介主演で『斬人斬馬剣』を監督。両作とも当時の社会主義思想の影響を受けた「傾向映画」の代表作として知られ、前者は内務省の検閲によって、完成フィルムから300フィート余りが削除されている。しかしカット・バックや移動撮影の斬新さで世を驚かし、芸術的に高い評価を受けた。

映画がトーキー時代を迎えた頃、元々極めて奔放な性格で映画会社とトラブルが多かったことに重ねて、伊藤の社会的思想は当局によって弾圧の対象となり、検閲、言論統制が強まっていく時代の流れのなか、映画作りの意欲が衰えて不振を極め、小津安二郎溝口健二山中貞雄らに押されて、目立つ作品を残していない。

1932年(昭和7年)、村田実田坂具隆内田吐夢らとともに日活から独立して新映画社を設立するが、翌1933年(昭和8年)に解散。再び日活に戻った。同年、アメリカのウエスタン式トーキーを初めて使った『丹下左膳 第一篇』を発表。また、片岡千恵蔵プロダクションで『堀田隼人』を監督・脚本する。以降は監督作が不振状態に遭い、衣笠貞之助監督の『雪之丞変化』を始め、シナリオ作家として数々の名作を残していった。

1934年(昭和9年)9月、永田雅一溝口健二山田五十鈴らと第一映画社を設立する[7]

1936年(昭和11年)、日本映画監督協会の設立に参加。

1942年(昭和16年)、大映京都嵐寛寿郎を迎えて製作した『鞍馬天狗横浜に現る』を監督。「鞍馬天狗」はアラカンの代表作であるが、大映京都ではこの一本に終わっている。1943年(昭和18年)には片岡千恵蔵主演で『宮本武蔵・二刀流開眼』を監督。こうした作品で時代劇スタアを育て上げると同時に、時代劇人気を支え、以後年に一本のペースで新作を撮り続ける。
戦後

戦後、GHQの規制で時代劇の製作ができなくなり、スランプが続くが、1947年(昭和22年)に「剣戟の無い時代劇」として、封建制度の秩序維持の為に、無辜の若者に無実の罪を着せようとする幕府の陰謀に立ち向かう男のドラマとして山内伊賀亮を描いた『素浪人罷通る』を、阪東妻三郎主演で演出し、スランプを脱出する。


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