伊藤博文暗殺事件
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伊藤博文暗殺事件
事件現場(2019年)
場所 吉林省浜江庁ハルビン市(現・中華人民共和国黒龍江省ハルビン市南崗区道裏区ハルビン駅
標的伊藤博文
日付1909年明治42年)10月26日
攻撃側人数1人(実行犯)
武器拳銃[注 1]
死亡者1人
犯人実行犯 - 安重根
共犯 - 禹徳淳、曹道先、劉東夏
容疑殺人罪(安)、殺人予備罪(禹)、殺人幇助罪(曹、劉)
刑事訴訟安は死刑(執行済み)
禹は懲役3年
曹、劉は懲役1年6ヶ月
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伊藤博文暗殺事件(いとうひろぶみあんさつじけん)は、1909年明治42年)10月26日吉林省浜江庁ハルビン市(現・中華人民共和国黒龍江省ハルビン市南崗区道裏区)のハルビン駅で、伊藤博文が襲撃され死亡した暗殺事件。大韓帝国安重根による犯行であった。
事件まで
計画以前

日露戦争後の1905年(明治38年)9月、ポーツマス条約(日露講和条約)が締結され、ロシア帝国大日本帝国による大韓帝国への進出を認めた。当時枢密院議長であった伊藤博文は特派大使に任命され、特命全権公使の林權助と共に韓国側へ迫り、11月17日には第二次日韓協約(五ヵ条条約)を締結させて、韓国外交を全面的に日本へ委任させることを認めさせた[注 2]。これにより韓国統監府が置かれ、12月21日には伊藤は韓国統監に就任、約3年半に渡って韓国に駐在し、韓国併合のための基礎作りを行った[2]

1907年(明治40年)7月24日には、伊藤は韓国内の反日暴動を機会として第三次日韓協約(七ヵ条条約)を締結させ、韓国内政の全権を日本が掌握することを認めさせた。その他、皇太子の韓国訪問、東洋拓殖の設立、韓国皇帝の地方巡幸などを実現させ、韓国併合に大きな役割を果たしたため、韓国人民族主義者の標的となったとされる[3]

本事件の実行犯である安重根は、かねてより韓国復興のために各地で遊説を行っていたが、日露戦争後に伊藤博文が第二次日韓協約(五ヵ条条約)第三次日韓協約(七ヵ条条約)を制定したことに対し、これは兵力による圧迫により作られたもので、韓国皇帝や韓国総理大臣が同意したのでもないと考えた[4]。安は以前、日露開戦の際の天皇の詔勅に、東洋の平和を維持し韓国の独立を強固にするとの内容が記されていることに感激した経緯があり、これら条約は日本皇帝の聖慮に反し、韓国国民を欺瞞したものであるとして、伊藤を暗殺し韓国の悲境を救わねばならない、と考えるに至った[4]

1909年(明治42年)の春頃には、安は同志の12人と共に「東洋平和の維持の出来る迄は、千辛万苦を共に堪えるように」と同盟し、同志らと共に左の人差し指を断指している。そして同志らの血で、国旗に「大韓獨立」の文字を記した[5]
準備

1909年(明治42年)10月10日から15日の間、大東共報社を安重根・禹徳淳(医師)・曹道先の3名が訪問して、伊藤博文暗殺を議論し、活動資金を無心した。ロシア人社長ミハイルロップは若干の金を渡し[6]、寄稿文に共感していた編集長李剛から軍資金の100円を借りると、安重根は禹徳淳と1909年10月21日(陰暦9月8日)朝にウラジオストク(浦潮)を出発し、10月22日、ハルビン市(哈爾浜)に到着した。両名はそれぞれブローニング社製のピストル、6連発と7連発を携行していた。途中ボクラニチナーヤで下車して、劉東夏にロシア語通訳として同行を頼んだが、彼には計画は伝えなかった。この日、禹と劉と共にハルビン駅周辺を下見して記念撮影。列車の到着時刻などを確認した[7]

ハルビンでは曹道先と合流。金成白(金聖伯)の家に泊まった[6]。旅費がすでに30円しかなかったので、部外者の金から50円借りた。10月23日、妻子を迎えにいくと劉東夏には言い[6]、彼を残して3名で蔡家溝に向かった。24日、安は単独行動し、電報で大東共報の李剛に借金50円の返済を頼み、さらに1,000円送金してくれるように頼んだ[8]。同じく電報でハルビンの劉に伊藤の動向を問い合わせたが、内容が要領を得ないものだったので、禹徳淳と曹道先を蔡家溝駅で見張らせるために残して、25日(陰暦12日)に安だけがハルビンに戻った。結局、安はロシアで発行されていた漢字新聞『遠東報』[9] を見て翌日に伊藤が列車で来ることを知って、1人で決行することになった。安と劉はこの日は停車場に泊まった。安は劉から6円と金時計を貰い、逃走時に備えて、劉を500メートル程離れた場所に馬車で待機させた[6]。朝7時に停車場に姿を現し、安はさらに2時間喫茶店で時間を潰して列車の到着時刻を待った[10]
事件
決行.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}事件直前の伊藤とココツェフ伊藤公遭難当時の見取図 (明治42年11月4日付の報知新聞掲載)

10月26日午前9時、伊藤を乗せた列車はハルビン駅に到着。プラットフォームではロシアと清の儀仗兵と軍楽隊が整列しており、1時間前から待機していたココツェフが、 イヴァン・コロストヴェッツ駐清ロシア公使、ヴェンツェリ中東鉄道副理事長、ホルヴァート中東鉄道管理局長と共に車内へ行き[11]、「衷心より閣下の御安着を祝す」と挨拶して簡単なやり取りを交わした。それからココツェフが、出迎えの警備隊を閲兵してほしいと希望し[12]、伊藤は正装の準備ができていないとして一度辞退したものの、重ねて勧められたため承諾し[13]、ホームへ降り立った[12]

安は列車が到着したため急いで喫茶店を出たところ、伊藤は既に降車して、ロシアの出迎えの武官らに挨拶しているところだった。伊藤がロシア兵の間を行き過ぎ、各国領事団の方向に方向に進んでいる間、安は機会を窺い、伊藤が領事団の前から引き返そうとしたところで、ロシア兵の隊列の間から手を伸ばし[14]、午前9時30分[15]、10歩ほどの至近距離から伊藤の右側部を目がけて拳銃を発砲した[14]


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