伊藤初代
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いとう はつよ
伊藤 初代
1919年(13歳)、本郷弓町の坪井写真館にて
生誕大塚 ハツヨ
1906年9月16日
日本福島県若松市(現・会津若松市)川原町25番地
死没 (1951-02-27) 1951年2月27日(44歳没)
日本東京都江東区深川
死因脳溢血による半身不随などの後遺症
墓地鎌倉霊園(神奈川県鎌倉市
記念碑岩手県奥州市江刺区岩谷堂の向山公園に「川端康成ゆかりの地」
岐阜県岐阜市湊町のポケットパーク名水に「篝火の像」
国籍 日本
別名ちよ(千代)
出身校岩谷堂尋常高等小学校増沢分教場(現・奥州市立岩谷堂小学校)
若松第4尋常小学校(現・城西小学校)
職業カフェ女給
雇用者山田ます
配偶者中林忠蔵
桜井五郎(再婚)
子供珠江(長女)
和夫(長男)、貴和男(次男)
美和子(長女)、匡子(次女)
靖郎(三男)、三千代(三女)
周二(四男)
親伊藤忠吉(父)、サイ(母)
親戚大塚源蔵(祖父)
佐藤キヱ(叔母)
マキ(妹)
白田静也(甥)、紀子(姪)
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伊藤 初代(いとう はつよ、1906年明治39年〉9月16日 - 1951年昭和26年〉2月27日)は、川端康成の元婚約者。15歳の時に22歳の川端と婚約し、その1か月後に突然婚約破棄を告げた女性である[1][2]。その事件による失意が川端の生涯の転機となり、様々な作品に深い影響を与えたことで知られる[3][4][5][6][7][8]。川端の永遠に満たされることのなかった青春の幼い愛は、清潔な少女へのや、聖処女の面影への憧憬を残し、孤児の生い立ちの克服という命題と融合しながら独自の基盤をなして、川端文学の形成に寄与した[3][5][6][7][8][9]

伊藤初代との事件を直接題材にした作品群は、発表当時は刊行本収録されず、川端の数え年50歳を記念した全集に初収録され、川端自身が「あとがき」において当時の日記実名部分は仮名でみち子)を交えて半生を振り返りながら、そのモデルの存在について初めて具体的に詳らかにした[10][11]。それ以降、その事件と川端文学との関連が論者の間で考慮され始め、川端のノーベル文学賞受賞以後は、より詳細な研究が進み、「伊藤初代」の実名や家族関係などが明らかとなり[11]、川端没後は、さらに新たな事実関係や周辺人物の実名・地名が解明された[11]

2014年(平成26年)には、川端が初代に宛てた未投函の書簡1通と、初代から川端に宛てた書簡10通が川端の旧宅から発見され、川端が小説内で引用した文面との関連が確認された[12][13][14][15]。また同年、初代の遺族証言により、謎であった婚約破棄通告の真相の一端が事実であった可能性が明らかとなり、川端研究再考の一助となった[16][17]
生涯[ソースを編集]
生い立ち[ソースを編集]

1906年(明治39年)9月16日、父・伊藤忠吉と、母・大塚サイの間の長女として、福島県若松市(現・会津若松市)川原町25番地の若松第4尋常小学校(現・会津若松市立城西小学校)の使丁室(用務員室)で誕生[7][11][18]。母・サイは臨時手伝いの用務員として時々学校で働いていたため、そこでの出産となり、「初代(ハツヨ)」という名前は、校長の長谷川代吉が名付けた[7][18]。その時、伊藤忠吉とサイはまだ正式入籍しておらず、生まれたばかりの初代は母方の祖父・大塚源蔵の戸籍内で、サイの私生子として届けられた(戸籍名はハツヨ)[11][18][19]

伊藤忠吉は、岩手県江刺郡岩谷堂字上堰14番地(現・奥州市江刺区岩谷堂)の出身で、大きな農家長男であったが、土地の風習で長子である姉・つねよが婿養子を迎えて伊藤家を継いだため、忠吉は同村の菅原家に婿入りし二児を儲けた[20]。しかし忠吉の結婚生活はうまくいかず離婚し、職を求めて1897年(明治30年)に故郷を出て、北海道仙台市を経て福島県若松市に渡っていた[6][19][20]

サイの父・大塚源蔵(祖父)は、福島県若松博労町字博労町94番地(現・会津若松市上町博労町4-24)で雑貨商を営み、かつては鶴ヶ城に出入りする御用商人であった[19][21]。源蔵は孫・初代が生まれた3年後に、長女である娘・サイと伊藤忠吉の結婚を認め、忠吉は1909年(明治42年)8月17日、同市西名子屋町39番地(現・日新町)に戸籍を立て婚姻届を出した[11][18][19][22]

サイは忠吉の籍に入り、ハツヨ(初代)は嫡出子となった[19]


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