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伊藤 公平
(いとう こうへい)
誕生1901年7月28日[2]
日本 千葉県印旛郡八生村押畑(現・成田市押畑)[1]
死没 (1984-03-09) 1984年3月9日(82歳没)[1]
職業歌人、随筆家、小説家、作詞家
言語日本語
最終学歴國學院大學
主な受賞歴千葉県文化功労賞(1971年)
影響を受けたもの
吉植庄亮
ウィキポータル 文学
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伊藤 公平(いとう こうへい、1901年7月28日 - 1984年3月9日)は、日本の歌人、随筆家、小説家、教員。千葉県印旛郡八生村押畑生まれ。吉植庄亮に師事。千葉県歌人クラブでは創設以来、事務所代表を長年務めた。また、出身地である成田市をはじめ、各地で短歌教室を開き指導を続け、後進に大きな影響を与えたと評価される。[2] 1901年、千葉県印旛郡八生村押畑(現・成田市押畑)に父総平、母よねの長男として生まれる。父の総平も歌人であった。少年時代より体が弱く、文学や絵画に親しむようになる。1919年、成田中学校(現・成田高等学校)を卒業して、國學院大學に進学。大学で佐佐木信綱、折口信夫、武田祐吉らの講義を受けて文学的素養を深めたが、同時期に絵画に傾倒し、川端画学校で油絵を学ぶ。しかし親に絵では食べていけないと諭され、教職へと進んだ。[1] 大学卒業後、千葉県安房農学校、千葉県立千葉高等女学校、千葉県立長生中学校(1931年?)、千葉県女子師範学校(1932年?)で教員を務める。[1] 一方、1922年には吉植庄亮の歌誌『橄欖』の創刊に参加[2]。また、吉植とともに雑誌『千葉県青年処女』(千葉県連合青年団、1926年創刊)の歌壇の選者を務めるなど、教職のかたわら、歌人としての活動にも力を入れた。1932年からは同じく吉植とともに、東京日日新聞(後の毎日新聞)千葉県版の歌壇の選者も務める[1][2]。 そのほか、岡本一平・池部鈞門下で漫画を学んで1928年に日本漫画会会員となり[1]、1930年代には『旅』(日本旅行文化協会)、『実業之日本』(実業之日本社)、『婦女界』(婦女界社)、『アカツキ』(日本青年協会)などに漫画を寄稿するなど、多才な人物であった。 教職は1941年まで務めた[1]。1942年には初の随筆集『女生徒』と初の小説集『卒業前後』を上梓している。 戦後、千葉県歌人クラブ(初代代表:神原克重
略歴
伊藤は書にも秀で、彼を歌の師の一人として慕った平野峯郎の歌碑(鹿野山九十九谷展望台、1957年)は伊藤が筆をふるっている[3][4]。また、作詞にも才を発揮し、千葉県内の学校の校歌の作詞を多数手掛けた。
千葉県において、「千葉県編集者協議会」会長や[1]、「千葉県明るく正しい選挙推進協議会」の委員などを務める[2]。1971年に千葉県文化功労賞を受賞[2]。また、藍綬褒章も授与されている[1]。
1984年3月9日、82歳で死去。晩年まで『橄欖』の選者を務め、歌作も続けた。 没後、生家の裏山に歌碑が建てられた。[1]
歌碑
さわやかに日はのぼりたり御社の庭うつくしき老松の影
著書
歌集