伊藤光四郎
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伊藤 光四郎基本情報
国籍
日本
出身地島根県簸川郡大社町
生年月日 (1937-07-28) 1937年7月28日
没年月日 (2011-11-30) 2011年11月30日(74歳没)
身長
体重174 cm
70 kg
選手情報
投球・打席左投左打
ポジション外野手一塁手
プロ入り1956年
初出場1956年
最終出場1970年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


島根県立大社高等学校

大阪タイガース
阪神タイガース
(1956 - 1961)

西鉄ライオンズ (1962 - 1970)

コーチ歴


西鉄ライオンズ
太平洋クラブライオンズ
クラウンライターライオンズ (1971 - 1977)

ロッテオリオンズ (1986)

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伊藤 光四郎 (いとう こうしろう、1937年7月28日 - 2011年11月30日)は、島根県簸川郡大社町出身のプロ野球選手外野手一塁手)・コーチ解説者

兄は元プロ野球選手の西倉実[1]
経歴

大社高校では、3年次の1955年夏の甲子園島根予選を制し東中国大会に出場するが、1回戦で玉島高に敗れ、甲子園には届かなかった。

卒業後の1956年大阪タイガースへ入団。1960年には主に1番打者として15試合に先発出場を果たすが、打撃面で低迷しレギュラーには届かなかった。1962年に金銭トレードで西鉄ライオンズへ移籍し、同年は外野手、一塁手として50試合に先発する。1963年巨人との日本シリーズでは3試合に出場し、最終第7戦では高橋明から代打本塁打を放つ。1965年には右翼手の定位置を掴み、初めて規定打席(18位、打率.263)に到達する。その後は1968年まで主に2、3番打者として起用され、打線が低調であったこの時期の西鉄を支えた。特に1967年は、西鉄の日本人選手で規定打席に到達したのは伊藤1人のみで、これは2013年にヤクルトが更新(0人)するまで唯一の記録であった[2]。1968年には自己最高の打率.272(14位)・9本塁打を記録してオールスターゲームにも出場するが、1969年以降は竹之内雅史東田正義の台頭で出場機会が激減し、1970年限りで現役を引退。

引退後は西鉄→太平洋→クラウンの二軍打撃コーチ(1971年 - 1975年)→一軍打撃コーチ(1976年 - 1977年)を務め、吉岡悟大田卓司鈴木治彦真弓明信を育てた。加藤博一には「お前のバッティングでは飯が食えん、左で打て!」と言ってスイッチヒッターに転向するきっかけを作り、左打ちの特訓を行った加藤は「恩師」と語っていた[3]島原輝夫コーチと共に指導する際、スイッチヒッターの先駆者である柴田勲に電話をしてノウハウを聞き出したほか、休日返上で練習に付き合った[4]、スカウト時代は伊東勤を担当。

退団後はラジオ関東→ラジオ日本バッチリナイター→ジャイアンツナイター」・ラジオ関西ゴールデンナイター」解説者(1978年 - 1985年)を経て、ロッテ二軍打撃コーチ(1986年)→フロント(1987年 - 1994年)を務めた。

2011年11月30日、呼吸不全のため福岡市内の病院で死去[5]。74歳没。
詳細情報
年度別打撃成績











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