日本の政治家伊藤 修いとう おさむ
生年月日 (1896-03-30) 1896年3月30日
出生地愛知県名古屋市
没年月日 (1969-06-14) 1969年6月14日(73歳没)
出身校日本大学法学部
前職弁護士
岐阜市会議員
所属政党日本社会党
称号従四位
勲二等瑞宝章
参議院議員
当選回数1回
在任期間1947年5月3日 - 1953年5月2日
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伊藤 修(いとう おさむ、1896年3月30日[1] - 1969年6月14日)は、日本の弁護士、政治家。参議院司法委員長および法務委員長(初代)[2][3][4]。 名古屋市生まれ[1]。1921年、日本大学法科卒。1922年、弁護士となる。中部日本農民組合および日本農民組合岐阜県連の常任顧問、岐阜市会議員、東亜興業、旭炭鉱、関東重工業、三富士製作所、朝日精機、旭電気工業および日本社会公論の社長、日本社会新聞岐阜県総局長、社会文化大学名誉学長、富田高等女学校理事、岐阜弁護士会会長、岐阜地方裁判所調停委員[2]。1952年、右派社会党岐阜県連委員長[1]。青年民主主義擁護連盟本部会長。浄土真宗[5][6]。東京都新宿区下落合に龍山荘を構えていた[7][8]。 1969年6月14日死去、73歳。死没日をもって従四位に叙される[10]。 参議院法務委員長として、昭和電工事件の委員会審議(検察及び裁判の運営等に関する調査会)にあたった[12]。1950年、委員長から外れた[13]。1952年、破壊活動防止法案に反対した[14][15]。 1955年、『憲法を如何に改正すべきか』を著し[16]、日本国憲法全般にわたる改正論の論点に触れつつ、独自の憲法改正論を展開した[17]。なお、巻末に「自衛權と戰爭放棄を論ず」[18]「國政調査権と司法權の獨立について」という論文がある[19]。 他の著書に『人身保護法論』、『会社更生法論』、『破壊活動防止法論』、『自衛権論』がある[5]。 スイスの平和会議に日本代表として出席、欧米各国を視察した[5]。 この節の出典や参考文献は、一次資料や記事主題の関係者による情報源に頼っています。信頼できる第三者情報源とされる出典の追加が求められています。
経歴
選挙
1927年、岐阜県会議員に立候補し落選[1]。
戦前において岐阜市会議員を務める[1]。
1947年、第1回参議院議員通常選挙岐阜県選挙区より立候補し当選(日本社会党)[11]。
1953年、第3回参議院議員通常選挙岐阜県選挙区に立候補するも落選(右派社会党)[11]。
1959年、第5回参議院議員通常選挙全国区に立候補するも落選(無所属)[11]。
活動
憲法改正論に関する主張.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}
出典検索?: "伊藤修" 参議院議員
『憲法を如何に改正すべきか』では、各論を述べた上で逐一私見を述べる形態をとっている。ここではその私見について要約して述べる。 憲法改正の限界については、硬性憲法を軟性憲法に変更するかどうかの問題に過ぎず、憲法改正の限界内である[20]。第一章を総則、第二章を国民の権利義務とし、第三章に天皇に関する規定を置くよう改めるべきである[21]。
改正限界説と構成について