伊藤久男
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伊藤 久男

基本情報
出生名伊藤 四三男
別名宮本 一夫
生誕1910年7月7日
出身地福島県本宮市
死没 (1983-04-25) 1983年4月25日(72歳没)
学歴帝国音楽学校
職業歌手
活動期間1937年?1982年
レーベルコロムビア

伊藤 久男(いとう ひさお、1910年明治43年)7月7日 - 1983年昭和58年)4月25日)は日本歌手。本名は伊藤 四三男(いとう しさお)。福島県安達郡本宮町(現本宮市)出身[1]目次

1 経歴

1.1 生い立ち・親族

1.2 歌手デビュー

1.3 戦中

1.4 戦後・晩年


2 代表曲

3 NHK紅白歌合戦出場歴

4 人物

4.1 性格と嗜好

4.2 家庭

4.3 古関裕而との関係


5 顕彰

6 登場する作品

6.1 テレビドラマ


7 関連項目

8 脚注

9 参考文献

10 外部リンク

経歴
生い立ち・親族

本宮町の旧家の出身。本名の四三男は生年の明治43年に由来する。父親は立憲政友会所属で県会議員を務めた伊藤彌(わたる)[注釈 1]、兄は福島県議会議員を経て戦後に自由民主党所属の衆議院議員を務める伊藤幟(のぼり)である。

生家は裕福であり、伊藤は当時はまだ珍しかったピアノに没頭し、中学(旧制)の頃にはピアニストを志望するようになる。家族や親族の反対を押し切り単身上京、音楽を生業とすることに反対していた家族へのカモフラージュのため東京農業大学に入学。
歌手デビュー

東京では、同郷の新進作曲家古関裕而と懇意になり[注釈 2]、家族には知らせずに農大を退学し、帝国音楽学校に進む。同校では同郷の声楽家・平間文寿に師事する。

その後、農大を退学したことが家族に知られて毎月の仕送りが来なくなり、音楽学校の同級生とともにコロムビア吹き込み所で合いの手や囃子の吹き込みのアルバイトを始める。ピアニスト志望だった伊藤は不本意だったが、これが後に作曲家やディレクターたちの耳に留まることになる。

1932年(昭和7年)、古関裕而の勧めにより、1933年(昭和8年)6月25日付で「伊藤久男」名義でリーガル(コロムビアの廉価レーベル)から「今宵の雨」でデビュー。コロムビアからのデビューは同年9月の「ニセコスキー小唄」で、「宮本一夫」の名前で発売。出身地「本宮」をひっくり返し、本名「四三男」の4から3を引いた「一」と、男を表す「夫」を付けた芸名で、同郷の作詞家野村俊夫が名付けたという[3][注釈 3]。その間、アルバイトとしてタイヘイレコードにて「内海四郎」名義でレコーディング。その後、コロムビアでは伊藤久男、リーガルでは宮本一夫を使用していたが、1935年(昭和10年)の「別れ来て」の発売を機に芸名を伊藤久男に統一。
戦中

抒情性豊かなバリトンで、昭和10年代前半から戦時歌謡(軍歌)のレコーディングが多く、伊藤久男としての初めてのヒットは日中戦争支那事変)を題材とする1938年(昭和13年)の「湖上の尺八」(2月20日発売)。慰問演奏藤原義江に抒情的なバリトンを流行歌手として生かすことを奨められる。一時期はオペラ歌手としての進路も検討したが、同年に慰問のため服部良一赤坂小梅らと中国戦線の日本軍部隊を訪れた際、自分の歌に涙を流す兵隊の姿を目の当たりにし、流行歌手としての途を選択した。

その後、「暁に祈る」「白蘭の歌」「高原の旅愁」「お島千太郎旅唄」と連続してヒットを飛ばし、スター歌手としての地位を確立。作詞家の野村俊夫や作曲家の古関裕而とともに「コロムビア三羽ガラス」と呼ばれた[1]


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