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伊良子 道牛(いらこ どうぎゅう、寛文11年12月30日(1672年1月29日) - 享保19年1月12日(1734年2月15日))は、江戸時代の外科医。諱は好在、字は道牛、号は無逸または見道斎。オランダ流の医学を学び、東洋医学と融合させた独自の医術を開発した。 伊良子家 父に従って九州に移り住んだ道牛は、当時唯一の西洋文明との接点であった長崎に近づいたこともあり、蘭学への憧憬に駆られる。貞享3年(1686年)、念願かなった道牛は長崎に赴き、慶安2年(1649年)に来日したオランダ商館医・カスパル・シャムベルゲルが広めた、「紅毛流外科」を学ぶ機会を得る。このとき、道牛は16歳(数え)であった。 その後、道牛は長崎で学んだ西洋医学と、日本に古来より伝わる東洋医学の長所を巧く融合させ、和洋折衷の独自の外科学を確立させる。 元禄14年(1701年)、山城国紀伊郡伏見(現在の京都市伏見区)に移住した道牛はこの地で開業したが、漢方・蘭方ともに適切な処方をしたその治療に名声が集まり、洛中洛外を始め近隣の諸国からも患者が集まったといわれている。 享保19年(1734年)1月12日(旧暦)、病を得ていた道牛は64歳でこの世を去る。墓は伏見桃山仙石谷の竜泉寺に建てられ、生前交友のあった伊藤東涯の撰文による墓碑銘が彫られていたが、明治時代に奈良鉄道敷設に伴って廃却され、現存しない。 昭和3年(1928年)、正五位を追贈された[1]。 道牛は、最初の妻の森村某との間に二男一女をもうけたがみな早世し、後添いとなった山川キヨとの間に生まれた好門がその後を継いだ。好門の子・光顕は滝口武者に列し、正六位下長門守の官位を与えられた。さらに光顕の養子・光通は典薬寮に採用され、仁孝天皇の拝診を許された。光顕以後、伊良子家は二家(見道斎・千之堂)に系統が分かれるが、両家とも伊良子流外科を継承し、それぞれ光順・光信の時代に明治維新を迎えるまで、御典医として朝廷に仕えた。 また、道牛の下には患者だけでなく門人も多く集い、そのうちの一人・大和見水は、後に華岡青洲の師となる。つまり、青洲は道牛の孫弟子に相当する[2]。
生涯
生い立ち
西洋医学との出会い
東洋医学との融合-伊良子流外科の確立
後継者・門人
脚注^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.56
^ 富士川游『醫史叢談』書物展望社、1942年、58頁。
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