伊秩 弘将
Hiromasa Ijichi
生誕 (1963-04-26) 1963年4月26日(61歳)
出身地 日本・東京都港区
ジャンルJ-POP
職業ミュージシャン
音楽プロデューサー
ソングライター
活動期間1987年 - 現在
事務所ブランニューミュージック
共同作業者ICE BOX
HIM
公式サイト伊秩弘将 ウェブサイト
伊秩 弘将(いぢち ひろまさ、本名同じ、1963年(昭和38年)4月26日 - )は、日本のミュージシャン、音楽プロデューサー、ソングライター。ブランニューミュージック所属。
SPEEDの音楽プロデューサーとして知られる。
血液型はO型。 現在まで、SNS・ブログは一切やらない主義。これは、あくまで自分を伝えるのは音楽でという姿勢から。 歌詞を書く時は「高校生の頃の伊秩」に立ち返って、反映させている。提供されたアーティストがライブをやっていく上でも「1年後には歌えなくなる」ことだけは避け、「これから先でも歌っていけるもの」を心掛けていて、特にSPEEDに提供する時にはそれを強く意識していた[1]。 「ひたすらピアノの前に座って、降りてくるのを待つ」という原始的な手法を基本にし、その時に浮かんだメロディの「素材感」を大切にしている。目標は「ピアノ1本で弾いても良い曲」を目指していて、レコーディングスタジオには、かなりの数の曲を磨きこんでから出向く[1]。 作曲をする時に「どうアレンジするか」のアイディアも同時に浮かぶが、伊秩だけで仕上げずにアレンジャーと組んでお互いの視点を通して、ディスカッションを行いながら、仕上げていく。これは「自分では気付かなかったイメージを見つけるため」「楽曲を客観視するため」という狙いがある。最終形に仕上げる時には関わらない様にしている[1]。 最初から意識してダンス・ミュージックを作っているわけではないため、ビートは後付けで足していく[1]。 1987年、渡辺美里のシングルで作曲家、森高千里のデビュー曲で作詞家デビュー。ソングライターの知名度を上げる。1989年にはシンガーソングライターとしてもデビューする。その後も、久宝留理子・谷村有美などのガールポップ歌手を中心に、楽曲を提供する活動を続ける[2]。 1990年代、小室ブームを代表とした、ソングライター個人によるプロデュース音楽が流行するブーム全盛の1990年代半ばにデビューしたSPEEDを筆頭に、The gardens・deeps・八反安未果などのプロデュースで、自身も一躍脚光を浴び、小室哲哉・小林武史・つんく等と並んで、オリコン年間作曲家売上げ『第1位』、オリコン2年連続年間作曲家&作詞家売上げ『第2位』など数々の記録を持つ。 その後もさまざまなアーティストのプロデュース、楽曲提供などを展開しながら、映画やテレビドラマのサウンドトラック制作をはじめ、単独でのテレビ出演、自身のエッセイ&作詞集の発売をするなど、仕事の幅を広げている。また近年では、定期ライブ『IJICHI's Living Door』の主宰を務める。 1996年にデビューしたボーカル&ダンスグループ・SPEEDのデビュー曲「Body & Soul」から、グループ最初の解散まで全曲を作詞作曲プロデュースした[2][3]。解散後は、各メンバーのソロ楽曲もプロデュースしている。2008年9月、3度目の再結成をして完全復活したグループのプロデュースを再開し、再度活動停止する2013年4月まで支援した。 同年7月より2年間、アイドルユニット・アイドリングNEO(現:NEO fromアイドリング!!!)の音楽プロデューサーとして全曲作詞作曲プロデュース[4]。2015年夏、原宿にオープンしたライジングプロダクションによる新たな発信基地「原宿駅前ステージ」のテーマ曲を始め、出演するガールズユニットなどの楽曲提供とプロデュースを開始する。 平成から令和にかけては、矢沢永吉、LiSA、MISIA、鈴木愛理、ジェジュン等へ、詞や曲を提供し、相変わらず精力的に活動。 千代田区立番町小学校に通学していた9歳の頃から作曲活動を始め、13歳からは作詞も開始し、麹町中学校在学中の間まで150曲以上の楽曲を創作。東京都立千歳丘高等学校時代はアマチュアロックバンドを結成し、この頃からレコード会社への売り込みなどを模索するようになる[5]。 1985年、神田外語学院卒業後、いったん就職するが「ここは自分の場所じゃないとわかった」という理由で、わずか1週間で退社。その後、ソングライターになる夢を実現させるために、約200本のデモテープを各レコード会社に持ち込んだという[5]。バイト先は六本木の音楽関係者が打ち合わせに来るカフェを選び、接客する際にデモテープを関係者に渡しアピールしていた。同時にピアノ弾き語りのライブ活動も精力的に行った[6]。 1987年、EPIC/SONY RECORDSに渡したデモテープを聴いた渡辺美里のスタッフから楽曲依頼、作詞では森高千里サイドから依頼が届いた。 渡辺美里の8th両A面シングル「IT'S TOUGH/BOYS CRIED(あの時からかもしれない)」で作曲家デビュー、オリコン週間チャートで初登場2位を記録した。 次いで森高千里のデビュー曲「NEW SEASON」で作詞家デビュー[5]。ミュージック・ビデオにコーラス役としてカメオ出演もする。 1988年、渡辺美里の3rdアルバム『BREATH』を皮切りに、提供曲を収録した渡辺のアルバム5作が、連続してミリオンヒットを記録する。提供シングルでは、10thシングル「恋したっていいじゃない」が25万枚を超えるヒットを記録。森高千里の2nd、3rdシングルの作詞も引き続き手掛け、2ndアルバム『ミーハー』では8曲の作詞を担当した。渡辺美里の飛躍、森高千里ワールドの基礎を作り、ソングライターとしての知名度を上げる。 1989年3月、BMGビクターから、シングル「アンブレラ・ストーリー」でソロデビューし[5]、翌月に1stアルバム『99.99』をリリース。同年秋には2ndシングル「カタストロフ」をリリースした。「FM ROCK KIDS」と「FM福岡」でラジオDJ番組を1年間務め、念願の矢沢永吉をゲストに迎える。また、日本青年館、日清パワーステーションでのライブ、全国20か所ピアノ弾き語りライブを敢行。 1990年2月、2ndアルバム『BOYS BE AMXIOUS』をリリース。原宿ホコ天でピアノ弾き語り・ゲリラライブを敢行。 久世光彦演出、小泉今日子主演のNHKドラマ『振り向けば春』の音楽を全編担当し、自らドラマ内でスナックバンド役としても出演して、主題歌の「TOKYOLIFE」を歌う。 1993年6月、ソニー・ミュージックエンタテインメントに移籍し、3rdアルバム『BANG!』をリリース。 3rdシングル「抱きしめたい」が、バラエティ番組『水着でKISS ME』のエンディング曲に起用され、再現ドラマにも本人役で出演し、お笑いコンビ・ホンジャマカと共演することとなった。 1994年、久宝留理子に提供したシングル「「男」」がカメリアダイアモンドのCMに起用され、50万枚の大ヒット。 4thシングル「Kissが止まらない」が、スリムビューティハウスのCMソング、5thシングル「あの夏の二人」が、TVドラマ『先生はワガママ』の主題歌になる。 ソロ活動と並行して吉岡忍、池田聡、中西圭三と共に期間限定ユニットICE BOXを結成。 『ミュージックステーション』に出演。大阪城ホール、東京ベイNKホールにてライブ出演。この模様は日本テレビ特番で1時間半特集され、伊秩は番組の中で久宝留理子への提供曲を、お台場の路上で弾き語りで歌う。 フジテレビ系列『ポンキッキーズ』の初代オープニングテーマおよび挿入歌となった、森高千里のロックン・オムレツ作曲。さらに森高千里提供曲「叔母さん」のレコーディングにピアニストとして参加。 1995年、実験プロジェクトとしてHIMを主宰し、アレンジャーとしてプロジェクトに参加していた後の盟友・水島康貴らと共に、覚えやすくシンプルな歌メロありきの、4つ打ちダンスミュージックを主とした楽曲制作に、本格的に乗り出す。このHIMというプロジェクトでの経験と、ソングライティング能力を高く評価した当時のライジングプロダクション社長・平哲夫から、まだ売り出す方向性も定かではなく、デビュー前だったSPEEDのプロデュースを依頼され、受諾した[7]。 矢沢永吉に1989年に引き続き、2回目のロングインタビューを成功させる。 1996年、プロデュースしたSPEEDがシングル「Body & Soul」でデビュー。さらに同年発売した2ndシングル「STEADY」で、自身にとって初のミリオンセラーを達成。レコード大賞優秀新人賞受賞。 森口博子に提供した「視線」でNHK紅白歌合戦出場。「行ーかなーくちゃ」というリフで耳馴染みの深い、ローソンのCMソングであった森高千里の「Let's Go!」がシングルとしてリリースされる。 1997年、SPEEDの3rdシングル「Go! Go! Heaven」が、初のオリコン週間チャート1位を獲得。 1stアルバム『Starting Over』が190万枚の売上を記録し、SPEEDの代表曲ともいえる「White Love」の大ヒット(オリコン3週1位で売り上げ200万枚・カラオケ14週連続1位達成)によって、自身は一躍有名音楽プロデューサーの仲間入りを果たす。 自身がプロデュースするThe gardensがシングル「Future's Memories/Bye Bye Blue」で、deepsがシングル「Love is Real」で共にデビューした。 1998年、SPEEDの6thシングル「my graduation」がオリコンチャート3週連続1位を獲得し170万枚の大ヒット。 プロデュースした八反安未果がシングル「Miss You ?忘れないで?」でデビュー。自身の手掛けるdeepsの「ハピネス」が主題歌となったTVドラマ『おそるべしっっ!!!音無可憐さん』にゲスト出演。 SPEEDの2ndアルバム『RISE』が230万枚を突破。またガーデンズの1stアルバム『A place in the Sun』が、25万枚のヒットとなった。 次いで自身が主宰するユニット・HIMの楽曲「SHOOTING STAR」を八反安未果がカバー。deepsのデビューアルバム『Lovely!』は20万枚を売り上げ、この時期が関連作品のリリース数が最も多い時期となった。 『笑っていいともテレフォンショッキング』、NHK『トップランナー』、『松任谷由実のオールナイトニッポン』などの番組にも精力的に出演。
人物像
作詞
作曲
編曲
概要
SPEEDなどをプロデュース
略歴
『昭和』学生時代 - 音楽クリエイター活動開始(黎明期 - 1988年)
『平成』ソロ - ユニット・プロジェクト(1989年 - 1995年)
SPEEDのプロデューサーに就任 - 音楽プロデュースを展開(1996年 - 1999年)
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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