伊治呰麻呂
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伊治 呰麻呂(これはり/これはる の あざまろ、生没年不詳[1])は、奈良時代の人物。官位従五位下上治郡大領

8世紀後半に陸奥国(現在の東北地方)で活動した蝦夷の族長で、朝廷から官位も授けられていたが、宝亀11年(780年)に宝亀の乱(伊治呰麻呂の乱/伊治公呰麻呂の乱)と呼ばれる反乱を引き起こした。
名前について

伊治呰麻呂は、現在の宮城県内陸北部の栗原市付近に勢力を持っていた蝦夷の族長である[2]

8世紀中葉以降の律令国家は、本州北東部への版図拡大を基本政策として、現地において時に強硬な軍事活動を行い、時に蝦夷を懐柔しながら、城柵を置き柵戸と呼ばれる移民を移住させて支配の拡充を図りつつあった。蝦夷に対しては征討と撫慰(懐柔)の硬軟を使い分けたが、あくまで基本は撫慰であり、政府に帰順した蝦夷を使って未服の蝦夷を懐柔させることも行われた[3]。したがって政府と蝦夷とは間断なく対立関係にあった訳でなく、武力衝突があった時でさえも全ての蝦夷と対立関係に陥った訳でない[4]。蝦夷の中には彼ら自身の思惑で政府の威光を恃み、また政府の政策に協力することで自らの地位上昇を目論む者もあったのである[4]。このように政府に帰服した蝦夷は、身分上更に狭義の「蝦夷」と、「俘囚」とに分けられる[4][5][6]。狭義の「蝦夷」とは、彼ら本来の集団を保持したまま政府に帰服したもので、君または公の姓を与えられて、多くは従来の居留地に留まった。対して俘囚とは個別に政府に帰服したもので、部姓を与えられて城柵の周辺に居住した[4][5][6]

伊治呰麻呂が、「公」の姓を附して伊治公呰麻呂とも称されるのは、まさしく彼が政府側に帰属して活動していたことを示す[7]。さらにこの証左となるのが彼に与えられた位階で、もともと夷爵第二等を有していたが、これは狭義の「蝦夷」に対して与えられるものであり[8]、さらに宝亀9年には、前年行われた海道・山道蝦夷の征討に功があったことを嘉して、外従五位下という地方在住者としては最高の位階を授けられるのである[2][9]

また、当時「呰麻呂」という名前は和人において珍しいものでなく、忌部呰麻呂や大伴呰麻呂など、史料上散見される[10]。このことから、神護景雲元年(767年伊治城造営の頃に伊治公一族が政府に帰順した折に、呰麻呂という和人の名前に改めたのではないかとの推測がある(今泉隆雄[8]。また「呰」の字は「」に通じ、身体的な特徴に由来すると考えられ、古代においては計帳に記述する身体的特徴として注記する情報でもあった[8]

一方で、「伊治」については、長く読み方を確定できず、「イヂ」と音読されるのが通例であった[11]。しかし昭和53年(1978年)に解読された多賀城出土漆紙文書に「此治城」とあり、「此」と「伊」の訓読の一致から此治城を伊治城と同定できるため、「コレハリ」(または「コレハル」)と読むことが明らかになっている[11](「此治」と「上治」を同定できるかについては後述)。
来歴
俘軍を率いる族長として

伊治(公)呰麻呂の名が六国史に現れるのは、宝亀9年(778年)6月に前年行われた海道・山道蝦夷の征討に際しての戦功を賞し、従五位下位階が授けられたことを記す記事においてである[原典 1][2]。これは地方在住者として最高の位であり[2]、これによって彼は官人たりえる身分を得たと考えられる[12]

この時期の東北地方は、宝亀5年(774年)、海道蝦夷が蜂起して桃生城を奪取した桃生城襲撃事件を契機として、後世「三十八年戦争」とも称される戦乱の時代に突入していくが、当初から政府が大規模な征討軍を派遣していた訳でなく、当初は現地官人と現地兵力が、敵対する蝦夷と武力衝突していた[13]天平9年(737年)の征討将軍大野東人以来中央からの派遣軍は絶えており[14]、それが復活するのは皮肉にも後に呰麻呂本人が引き起こす反乱が原因である。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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