この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "伊東長詮"
凡例伊東長詮
時代江戸時代中期
生誕元文元年5月19日(1736年6月27日)
死没安永7年6月23日(1778年7月17日)
改名政之助(幼名)、長詮
戒名竜泉院英岳長雄
墓所高林寺(文京区向丘)
官位従五位下伊豆守
幕府江戸幕府
主君徳川家治
藩備中岡田藩主
氏族伊東氏
父母伊東長丘、本多助芳娘
兄弟長詮、石河貞通、木下俊徳正室、
内田正良正室、三枝守恭継室、
松平康休継室、三枝守恭継々室、
永見為糾正室ら
妻五島盛道娘
子長寛、朽木昌綱継々室、長庚、佐野貫行、松平康彊正室、木下俊昌正室ら
テンプレートを表示
伊東 長詮(いとう ながとし)は、備中国岡田藩7代藩主。第6代藩主・伊東長丘の三男。
名君とされている[注 1]。 延享4年(1747年)6月に世子とされた。宝暦13年(1763年)9月16日に父の隠居により家督を継いだ。有能で無かった父と較べて才能に優れ、性質は温厚というまさに名君で、家臣の意見をよく聞く人物だった。ただし、一部に感情の激しいところがあり、家臣を震え上がらせたとも言われている。明和7年(1770年)に旱魃が追こって領民が苦しむと、自ら節約に努めて領民を助ける施策を講じている。 安永7年(1778年)6月23日、父に先立って死去した。享年43。跡を長男・長寛が継いだ。 長詮が死去したとき、領民は皆悲しみに暮れたと言われている。
略歴
系譜
父:伊東長丘(1697-1782)
母:本多助芳の娘
正室:五島盛道の娘
長男:伊東長寛(1764-1850)
生母不明の子女
女子:朽木昌綱継々室
三男:伊東長庚
四男:佐野貫行
女子:松平康彊正室
女子:木下俊昌正室
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 戦前の『郷土史』の「名君賢氏」に長詮の名前が挙げられ、岡田藩と領民への貢献とともに記されている[1]。
出典^ 福武辰衛 編『郷土史』岡山県総社高等女学校々友会、1933年11月10日、28-29頁。"第一篇 総説 名君賢氏"。
表
話
編
歴
伊東氏岡田藩7代藩主 (1763年 - 1778年)
伊東長実1615-1629
伊東長昌1629-1640
伊東長治1640-1658
伊東長貞1658-1693
伊東長救1693-1723
伊東長丘1723-1763
伊東長詮1763-1778
伊東長寛1778-1850
伊東長裕1850-1860
伊東長とし1860-1871
廃藩置県
倉敷市真備ふるさと歴史館