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凡例伊東 義祐
伊東義祐像
時代戦国時代 - 安土桃山時代
生誕永正9年(1512年)
死没天正13年8月5日(1585年8月29日)
改名虎熊丸(幼名)、祐清、可水、義祐、照眼
別名六郎五郎(通称)、三位入道
官位正五位下、修理大夫、従四位下、大膳大夫、正四位下、従三位
幕府室町幕府御相伴衆
氏族日向伊東氏(藤原南家為憲流工藤氏)
父母父:伊東尹祐、母:福永祐炳娘
兄弟福永源兵衛室、男子(生母は中村氏)、
祐充、義祐、玉蓮夫人(島津忠治室)、祐吉
妻荒武氏娘、籾木氏娘、河崎祐長娘、
御東(福永源兵衛娘:義祐の姪)、
福園(川崎良長娘)
子高城(肝付良兼室、杉田宗盛室)、麻生(北原兼守室、馬関田右衛門佐室)、歓虎丸、義益、尼公方丈東興庵、町上(伊東祐青室、伊東マンショの母)、伊東祐信室、照覚院、祐兵
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伊東 義祐(いとう よしすけ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、日向国の戦国大名。日向伊東氏11代(伊東氏16代)当主。伊東祐充・祐吉は同母兄弟。 永正9年(1512年)、日向国の戦国大名・伊東尹祐の子として誕生。 天文2年(1533年)、日向伊東氏9代当主で兄・祐充が若死にすると、叔父・伊東祐武が反乱を起こし、祐充や祐清(義祐)の外祖父で家中を牛耳っていた福永祐炳を自害に追い込み、都於郡城を占拠してしまう。残された祐清・祐吉兄弟は後ろ盾を失い、日向を退去し上洛しようとしたが、祐武を支持しない者達の制止を受けて思い留まり、財部に引き返して祐武方と対峙した。こうして家中を二つに分けた御家騒動となったが、荒武三省の活躍により祐武は自害し、祐清・祐吉方は都於郡城を奪回した。 乱の収束後、伊東氏の家督は長倉祐省の後援で弟の祐吉が継ぎ、祐清は出家を余儀なくされる。ところが3年で祐吉が病死したため、天文5年(1536年)7月10日に還俗し佐土原城へ入ると11代を相続した。 翌天文6年(1537年)、従四位下に叙せられ将軍・足利義晴の偏諱を受け、以後「義祐」と名乗る。天文10年(1541年)に大膳大夫の官途を拝受するとともに、永禄4年(1561年)には従三位に叙せられ、以後「三位入道」を称した[1]。(従三位への叙位年については『日向記』では天文15年(1546年)とされている。)また、永禄7年(1564年)には室町幕府相伴衆に任じられている[1]。 義祐は、飫肥を領する島津豊州家と日向南部の権益をめぐって争い、長い一進一退の攻防を繰り返した。 永禄3年(1560年)、豊州家は島津宗家を介して幕府に飫肥役の調停を依頼、6月に足利義輝より和睦命令が出されるが、義祐はこれに従わなかった。そのため、9月4日に幕府政所執事である伊勢貞孝が日向国へ下向した。その際、義祐は貞孝へ飫肥侵攻の正当性を示すべく、6代当主・伊東祐堯が足利義政より賜ったという「日薩隅三ヶ国の輩は伊東の家人たるべし、但し島津、渋谷はこれを除く」という内容の御教書を提示する。これを見た貞孝は、当時の幕府が用いない言葉遣いが散見され偽書の疑いが強いと断じたものの、確証までは得られなかった為に、止むを得ず飫肥を幕府直轄領と定めて不可侵の領地とした。しかし、義祐はこれを歯牙にも掛けず、翌永禄4年(1561年)4月には七度目の飫肥侵攻を開始した。 同年12月、豊州家を圧迫し、交渉により飫肥の一部を割譲させると、永禄5年(1562年)5月には完全なる領有に成功する。しかし、同年9月に豊州家に攻められると、ほんの4か月で撤退することとなった。 そして永禄11年(1568年)1月9日、義祐自ら総勢2万と号する大軍を率いて飫肥城を攻撃。島津忠親が守る飫肥城を約五ヶ月間にわたり包囲し、また援軍として出陣した北郷時久の軍を小越の戦いにおいて撃破(第九飫肥役)。この大敗を受けて同年5月、島津貴久は義祐との和睦を決定した。その結果、大隅国の肝付氏と豊州家の領土を分け合う形で永禄12年(1569年)に飫肥を知行。こうして島津氏を政治的に圧倒し、日向国内に48の支城を構えた義祐は、伊東氏の最盛期を築き上げたのである(伊東四十八城)。 勢い盛んな義祐は次第に奢侈と京風文化に溺れるようになり、本拠である佐土原(現宮崎県宮崎市佐土原町)は「九州の小京都」とまで呼ばれるほど発展していくが、義祐の武将としての覇気は失われていった。 真幸院が肥沃な穀倉地帯であること、また日向の完全なる支配にはどうあっても飯野地区攻略が不可欠であったため、永禄9年(1566年)に飯野地区攻略の前線基地として小林村に三ツ山城(後の小林城)を築城させる。だが、これを知った島津義久らが城の完成する前に攻撃を仕掛けてくる。須木城からの援軍もあり、城主の米良重方は苦戦しながらもこれを撃退する。
生涯
家督相続
飫肥役
真幸院攻略?木崎原の戦いに嫁ぎ未亡人となった娘の麻生を、北原庶流の馬関田右衛門佐に娶せるとして、事実上の乗っ取りを画策した。翌永禄2年(1559年)3月17日、義祐はその反対派を都於郡城へ呼び寄せて詰問し、その帰り道である六野原で取り囲んで粛清すると、右衛門佐と麻生の婚姻を敢行して北原氏の領地の全てを奪い取った。しかし永禄5年(1562年)、島津貴久と相良義陽、北郷時久が北原氏の旧領回復に協力したため奪い返される。これに義祐は、密かに相良氏と同盟、永禄6年(1563年)に共に大明神城を攻め落とし、永禄7年(1564年)には北原氏に従属する大河平氏の今城を攻め取った。その後、北原氏は離反者が相次いだために、真幸院の飯野地区以外は再び伊東氏の領地となる。