伊東甲子太郎
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 凡例伊東 甲子太郎
伊東 甲子太郎
時代江戸時代末期(幕末
生誕天保5年12月3日1835年1月1日
死没慶応3年11月18日1867年12月13日
改名初名:大蔵(大藏)→甲子太郎、:武明(たけあき)、号:誠斎
別名変名:宇田兵衛、伊東摂津
墓所京都市東山区 戒光寺
官位贈従五位
父母父:鈴木専右衛門忠明、養父:伊東誠一郎
兄弟鈴木三樹三郎(弟)
妻みつ(伊東誠一郎の娘)
子えい(娘)、養嗣子:鈴木新(兵庫県巡査)
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伊東 甲子太郎(いとう かしたろう / いとう きねたろう、天保5年12月3日1835年1月1日〉- 慶応3年11月18日1867年12月13日〉)は、幕末新選組参謀[1]および文学師範、のち御陵衛士(高台寺党)盟主。

名前の読みについては、同時代の史料に「樫次郎」と表記されたものがあることから、「かしたろう」とされるが、「きねたろう」とする説もある。
生涯
出自

天保5年12月3日(1835年1月1日)、常陸志筑藩士(郷目付)鈴木専右衛門忠明の長男として生まれる。初名は大蔵。父・忠明が家老とのいさかいによって隠居した後、大蔵が家督を相続したものの、のちに忠明の借財が明らかになったことから家名断絶となり、一家は領外へ追放される。

大蔵は水戸へ遊学し、水戸藩士・金子健四郎に剣術(神道無念流剣術)を学び、また、水戸学を学んで勤王思想に傾倒する。追放後の父・忠明は高浜村東大橋(現石岡市)で村塾(俊塾)を主宰し、帰郷した大蔵も教授に当たった。のちに江戸深川中川町北辰一刀流剣術伊東道場に入門するが、道場主の伊東誠一郎に力量を認められて婿養子となり、伊東大蔵と称した。元治元年8月当時水戸藩戸田銀次郎の家来であり、妻の名前は「みつ」といい、「えい」という娘がいたことが記録されている[2][3]。住み込みの門人として内海二郎、金澤鎗次郎らの名前が残る[3][4]
新選組

元治元年(1864年)10月、同門の藤堂平助の仲介で新選組に加盟。同年11月、弟の鈴木三樹三郎、盟友の篠原泰之進加納鷲雄服部武雄、門人の内海や中西昇らと上洛。このとき、上洛の年(甲子)にちなんで伊東甲子太郎と称する。参謀兼文学師範に任じられる。容姿端麗で巧みな弁舌から、伊東に対する人望は高かったと伝わる。しかし、伊東と新選組は攘夷という点で結ばれていたが、新選組は佐幕派で、勤王(倒幕)を説こうとする方針をめぐり密かに矛盾が生じていた。
御陵衛士

西国遊説を終えて、慶応3年3月20日(1867年4月24日)、薩摩藩の動向探索と御陵警備任務の拝命を名目に新選組を離脱し、篠原や鈴木など同志14名とともに御陵衛士を結成する。東山高台寺の月真院に本拠を置いたため、高台寺党と呼ばれた。しかし、新選組内で失脚しつつあった武田観柳斎らの御陵衛士加盟の要望は拒絶している。このころ伊東摂津と称する。
暗殺伊東甲子太郎殉難の地碑(本光寺)

近江屋事件から3日後の慶応3年11月18日(1867年12月13日)、伊東は近藤に呼ばれ妾宅にて接待を受ける。酔わされた伊東は、帰途にあった油小路本光寺門前にて新選組隊士の大石鍬次郎ら数名により暗殺された(油小路事件)。


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