伊東浩司
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お笑いコンビランジャタイメンバー「伊藤幸司(いとうこうじ)」とは別人です。

伊東浩司

選手情報
ラテン文字ITO Koji
国籍 日本
種目短距離走
所属富士通 (1992年 - 2001年)
大学東海大学 (1988年 - 1992年)
生年月日 (1970-01-29) 1970年1月29日(54歳)
出身地兵庫県神戸市
身長180cm
成績
オリンピック100m 準決勝1組7着 (2000年
200m 準決勝2組6着 (1996年
4x100mR 6位 (2000年)
4x400mR 5位 (1996年)
世界選手権100m 2次予選5組7着 (1999年
200m 準決勝1組6着 (1999年)
4x100mR 5位 (1995年
4x400mR 準決勝1組4着 (91年
地域大会決勝アジア大会
100m 優勝 (1998年
200m 優勝 (1998年)
4x100mR 優勝 (1994, 98年)
国内大会決勝日本選手権
100m 優勝 (1998年)
200m 優勝 (1995, 96年)
400m 3位 (1993年)
自己ベスト
100m10秒00 (1998年)
200m20秒16 (1998年)
400m46秒11 (1996年)

獲得メダル

陸上競技
日本
アジア大会
1994 広島4x100mリレー
1998 バンコク100m
金1998 バンコク4x100mリレー
金1998 バンコク200m
銀1994 広島200m
アジア選手権
金1991 クアラルンプール4x400mリレー
金1993 マニラ4x400mリレー
金1998 福岡200m
銀1998 福岡4x100mリレー
銅1991 クアラルンプール400m
銅1991 クアラルンプール4x100mリレー
銅1993 マニラ400m
東アジア大会
1997 釜山200m
金1997 釜山4x100mリレー
1993 上海200m


編集 

伊東 浩司(いとう こうじ、1970年1月29日 - )は、兵庫県神戸市出身の日本陸上競技短距離走元選手、指導者。2020年4月より甲南大学全学共通教育センター教授

多くの日本人選手が短距離界で活躍するネグロイドに合った走り方をしていた中、一人日本人に適した走り方を求め当時タブーとされていた「腕を軽く振る」「足をあまり上げない」「少し前傾姿勢」といった走法を取り入れた選手であった。その結果1998年に100mで10秒00の日本記録を打ち出した。この記録は2017年9月9日に桐生祥秀が9秒98を記録するまで、19年にわたって更新されなかった。
経歴

神戸市立鵯台中学校報徳学園高等学校を経て、東海大学政治経済学部経済学科を卒業後、富士通株式会社に入社。2008年3月に早稲田大学大学院スポーツ科学研究科修士課程を修了。

鵯台中時代、100mと200mで当時の中学記録を上回る10秒7、21秒8で走る。全日本中学100m5位・200m3位ジュニアオリンピック100m3位・400m1位

報徳学園高校1年時、鳥取国体少年B400m1位。3年時、沖縄国体の少年A男子400mで当時の高校記録となる46秒52をマーク。その年のインターハイ8位の雪辱を果たした。

1998年、日本選手権で100m10秒08・200m20秒16の日本新記録(当時。100mは朝原宣治に並ぶタイ記録)を樹立する。

1998年12月13日に開かれたバンコクアジア大会の男子100mにおいて、準決勝で当時のアジア記録ともなる日本新記録の10秒00(追い風1.9m)を出したものの、速報タイムでは9秒99で、アジア人・非ネグロイド初の9秒台かと思われ、準決勝だったため最後は流している。直後のインタビューでは、ゴール前で流したことを後悔する発言を残している。100m決勝レースでは10秒05で優勝。男子200m(20秒25)と男子400mリレー(38秒91・アンカー)でも優勝を果たして合計3個の金メダルを獲得、バンコクアジア大会のMVPも獲得した。

アフリカ系選手で当時の最高記録となる10秒00をマークしたのは、1984年のポーランドマリアン・ヴォロニンに続き2人目であった[1]。その年の年末、紅白歌合戦にゲスト出演するまでに知名度が上がり「アジアの風」と呼ばれた。

また1999年6月16日には、平塚陸上競技場で行われた東海大-日大対校戦の男子100mで、手動計時ながら9秒9(追い風1.6m)を記録した[2]

夫人は学年が1年上の、世界陸上アテネ大会女子マラソンで優勝・金メダリストとなった鈴木博美である。

現在はスポーツ解説者としてオリンピックや世界陸上などに多数出演。よしもと大運動会の解説にも呼ばれている。

2009年3月30日より、神戸市教育委員会の教育委員を務めている。

2011年4月より、関西学生陸上競技連盟のヘッドコーチを務めている。

2011年11月より、日本陸上競技連盟強化委員会短距離部長を務めている。
成長過程

ジュニア時代の伊東は、当時、中学・高校生に本格的なウエイトトレーニングを課す指導者も多い中、筋力アップを目的としたトレーニングをほとんど行っていなかった。中学時代の伊東の走りはアゴは上がる、肩は大きくぶれる、腕の振りはメチャクチャといったものであった。しかし記録的には前述の通り優秀で、動きそのものはしなやかであった。当時の指導者は伊東の将来を考え、長所であるそのしなやな動きが失われないように配慮し、ウエイトトレーニングを行ったとしても軽い負荷に限定していた。

大学でも同様に走りこみと跳躍系の練習が中心であり、本格的にトレーニングを始めたのは社会人になってからであった。しかしその間もメデイシンボールやスピードバウンディングでのトレーニングを欠かさず行い、筋肉・関節の硬化が起きないよう配慮していた。

中学・高校時代から追い込めばもっと早くからさらなる好結果を得ていたかもしれないが、本人も指導者も我慢を重ね、着実に階段を上っていった成功例のひとつだとされている[3]
走法

ナンバ』の動きを取り入れたとされているが、右足(左足)と右腕(左腕)を同時に同方向へ動かしているわけではない。実際に伊東が取り組んだ走法は、例えば右足が前に出るとき同じ側の胸を脚の上に乗り込ませるようにするもので、その時に自然と右腕は後ろに引かれるが内旋動作がはいるために大きく振ることはできない(意識的に腕を振らないと思われがちだが結果的に大きく動かないだけである)。脚と腕が同方向へ同時に動けば人体構造上、走ることはもちろん歩くことも不自然かつ困難であり所謂『ナンバ走り』ではない[4]。また肩の動きを抑えていると言われる事もあるが、実際には上記の理由により例えば朝原宣治などの走り方と比べれば結果的に大きく前後に動かないだけであるが、逆に上下には大きく動いており、しかも正面から見た場合には頭から足まで波打つように大きく揺れている[5]。脚を高く上げない走法でも知られるが、これはネグロイドに比べ骨盤が後傾しがちな東洋人には不向きであるとの理由であるとされる[6]
主な成績

備考欄の記録は当時のもの

年大会場所種目結果記録備考
1991
世界選手権東京4x400mR予選3分01秒26 (4走)アジア記録、1組4着
アジア選手権 (en) クアラルンプール400m3位46秒64


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