伊東四朗
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「伊東四郎」はこの項目へ転送されています。政治家については「伊東四郎 (衆議院議員)」をご覧ください。

いとう しろう
伊東 四朗
生年月日 (1937-06-15) 1937年6月15日(86歳)
出生地 日本東京府東京市下谷区竹町(現:東京都台東区台東
身長166 cm
血液型O型
職業俳優タレント司会者
活動期間1958年 -
公式サイト ⇒伊東四朗オフィシャルサイト
主な作品
テレビドラマ
遠山の金さん』/『ムー
同心暁蘭之介』/『おしん
銭形平次』 /『ダブル・キッチン
十津川警部シリーズ』/『北条時宗
おかしな刑事』シリーズ
忠臣蔵』/『笑ゥせぇるすまん
坂の上の雲』/『平清盛
ドクターX?外科医・大門未知子?
老害の人』映画
マルサの女』/『天河伝説殺人事件
ミンボーの女』/『スーパーの女
CM
白子のり
ヤクルト

 受賞
報知映画賞
助演男優賞
2007年しゃべれどもしゃべれども
舞妓Haaaan!!!』第16回菊田一夫演劇賞(『雪之丞変化』、1990年)
第52回NHK放送文化賞(2000年)

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伊東四朗
ニックネームベンジャミン伊東
生年月日 (1937-06-15) 1937年6月15日(86歳)
出身地 日本東京府東京市下谷区
(現:東京都台東区台東
血液型O型
身長166 cm
言語日本語
方言東京弁
最終学歴東京都立市ヶ谷商業高等学校
師匠石井均
出身浅草軽演劇
コンビ名てんぷく集団
トリオ名てんぷくトリオ
相方三波伸介
戸塚睦夫
芸風漫談コント
立ち位置左
事務所オルテ企画
活動時期1958年 -
現在の代表番組『伊東四朗 吉田照美 親父・熱愛
過去の代表番組『笑って!笑って!!60分
みごろ!たべごろ!笑いごろ!
ザ・チャンス!』/『伊東家の食卓
コメディーお江戸でござる
脳内エステ IQサプリ
芸能人格付けチェック
伊東四朗のあっぱれ土曜ワイド
他の活動俳優
配偶者あり
親族次男(伊東孝明
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伊東 四朗(いとう しろう、1937年昭和12年〉6月15日 - )は、日本コメディアン[注 1]俳優タレント司会者日本喜劇人協会相談役。オルテ企画所属。現在の東京都台東区台東出身。血液型はO型。5人きょうだい(兄2人、姉1人、妹1人)の三男[1]

兄は教育評論家[2]の伊藤竹三。息子は俳優・タレントの伊東孝明
来歴
生い立ち

1937年6月15日東京府下谷区竹町(現在の台東区台東)にて[3]、服地商の子として生まれる。父親は静岡県榛原郡相良町(現在の牧之原市)、母親は同県掛川市の出身[4]。男、女、男、男、女の5人きょうだいの上から4番目の三男が伊東[3]。戦時中は母親の実家のある掛川市に疎開した。疎開中には、工場跡地のトロッコで遊んでいたところ、トロッコが暴走して転倒し車輪の一部が伊東の左頬を貫通したことがあるという。
石井均一座

東京都立市ヶ谷商業高等学校卒業後は就職を希望し数多くの面接を受けるも、目付きが悪い、人相が悪いことを理由に不採用が続き、伝手を頼って紹介された製薬会社も入社試験を受けたが採用には至らなかった。1958年に伊東は早稲田大学生協職員に採用され、時間が出来ると観劇に様々な場所へ赴いた。その中で新宿フランス座の座付き俳優だった石井均は同じくこの年に劇団「笑う仲間」を旗揚げ、この舞台を見に足繁く通っていたため一座の役者が伊東の顔を憶えるほどになっていた。それらの経緯もあり、石井一座の役者から「君も(舞台で)やってみないか?」と誘われ、石井一座に参加[5]。「笑う仲間」はもう一人の共同主宰者と石井の仲違いから数か月で瓦解。「石井均一座」として再出発し新たに財津一郎(当時は財津肇メ)らが加わった[6]

最初の芸名は、師匠の石井均に「いとうにしよう」と言われたことから「伊藤証(いとうしょう)」だったが(「一等賞」をもじって名付けられたとの説もある[7])、ポスターなどに名前が連なる時に「名前が3文字なため、4文字の先輩より目立つ。お前も4つにしろ(→四朗)」ということで「伊東四朗」と改名した[注 2]
てんぷくトリオ詳細は「てんぷくトリオ」を参照

石井一座は、浅草松竹演芸場新宿新宿松竹文化演芸場を拠点に人気となる。石井に追随した戸塚睦夫も新宿フランス座々付でその剣劇や軽演劇仲間[注 3]であった三波伸介とは夜間キャバレーの営業に出ていた(三波戸塚コンビ)。このステージ営業はある芸能事務所が石井をスカウトし、石井は戸塚を誘い二人で開始(石井戸塚コンビ)、その後石井は劇団旗揚から多忙を極め時間上の都合から三波にこのコンビ営業を移譲した経緯があった。引き継いだ三波はフランス劇場の座付で残り、石井の劇団に移った戸塚とはこの夜スケジュールに間に合わない事態が発生すると、戸塚はその都度に同じ座員だった伊東に声を掛けてこのキャバレー営業の相手代役に仕立て「(にせ)三波伸介[注 4]」として急場を凌いでいたが、三波は1960年初頭に失踪(その後大阪に行ったことが判明する)、伊東は「三波」の名でそのまま夜の代役営業を余儀なくされ、約一年余に渡り三波の帰京まで続けた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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