この項目では、歴史的地名について説明しています。県については「アラトゥルク県」をご覧ください。
伊吾(いご、?音:Y?wu)は、中国の漢代から唐代にかけて存在した歴史的地名。現在の中華人民共和国・新疆ウイグル自治区・クムル市にあたる。現在も伊吾県、伊吾鎮
などでその名が残る。漢代は伊吾盧(いごろ)と呼ばれた。秦・漢時代、この地には西戎が住んでおり、匈奴の勢力下にあった。しかし、漢の武帝(在位:前141年 - 前87年)が匈奴を破ると、代わって漢が西域を支配するようになる。
神爵3年(前59年)、宣帝(在位:前73年 - 前49年)は初めて西域都護を置き、鄭吉にそれを担当させた。
初元元年(前48年)、元帝(在位:前48年 - 前33年)は戊己校尉を置いて車師前王国で屯田させる。
後漢時代を置いて屯田させた。しかし、永平18年(75年)に明帝が崩御すると、それに乗じて西域諸国が一斉蜂起したため、後漢は建初2年(77年)に屯田をやめて伊吾を放棄し、代わりにまた北匈奴が伊吾の地を占拠することとなる。
和帝の永元元年(89年)、大将軍の竇憲は北匈奴を大破。永元2年(90年)、竇憲は副校尉の閻槃
に2千騎余りを率いさせて伊吾を奪い返させた。元興元年(105年)、和帝が崩御すると、西域はまた反乱を起こした。安帝の永初元年(107年)になっても頻繁に西域都護の任尚,段禧らを攻囲するので、朝廷はその険遠をもって西域都護を廃止した。北匈奴はふたたび諸国を服属させて10余年間共に辺寇をなした。敦煌太守の曹宗はその暴害を患ったため、元初6年(119年)、安帝は行長史の索班を遣わし、千人余りで伊吾に駐屯させてこれを招撫し、反乱を鎮めた。
永建6年(131年)、順帝は永元の時のようにまた伊吾で屯田を開設し、伊吾司馬1人を置いた。
桓帝の元嘉元年(151年)、北匈奴の呼衍王が3千騎余りを率いて伊吾を寇したため、伊吾司馬の毛トは吏兵500人を蒲類海の東に派遣して呼衍王と戦わせたが、ほとんどが戦死した。勝ちに乗った呼衍王は伊吾屯城を攻める。夏、敦煌太守の司馬達は敦煌,酒泉,張掖属国の吏士4千人余りを率い、伊吾を救うべく出塞して蒲類海に至ったが、それに気づいた呼衍王が立ち去ったため、漢軍は無功で還ることとなった。
やがて後漢末期の動乱(いわゆる三国時代)が始まると、後漢は西域を運営することができなくなったため、伊吾を始め西域を放棄することとなった。
[1] 西晋時代は敦煌郡に属し、伊吾県が置かれた。しかし、西晋の支配も長くは続かず、五胡十六国時代から南北朝時代に至るまで伊吾の地には?善戎が居座ることとなる。 [2] 隋が南北を統一すると、漢の伊吾屯城の東に築城し、伊吾郡とした。 隋末、西域雑胡に占拠される。 [3] 隋末以来、伊吾は西突厥に臣従していたが、貞観4年(630年)になって、ソグド人の商人の石万年を中心として[4]唐に内属したため、この地に西伊州が置かれ、貞観6年(632年)には「西」の字をとって伊州と改名された。 [5]
魏晋南北朝時代
隋代
唐代
伊州の領県
伊吾県
柔遠県
納職県
脚注^ 『後漢書』西域伝
^ 『晋書』志第四 地理上
^ 『旧唐書』志第二十 地理三
^ 玉木重輝『高昌国物語』(白水社)P.152
^ 『新唐書』志第三十 地理四、列伝第一百四十六下 西域下
参考資料
『後漢書』西域伝
『晋書』志第四 地理上
『旧唐書』志第二十 地理三
『新唐書』志第三十 地理四、列伝第一百四十六下 西域下
関連項目
安西大都護府
甘州ウイグル王国
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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