伊号第五〇四潜水艦
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ルイージ・トレッリ
同型艦「レオナルド・ダ・ヴィンチ」の艦形図
基本情報
建造所ムッジアーノ造船所
運用者 イタリア王立海軍
 ナチス・ドイツ海軍
 大日本帝国海軍
艦種潜水艦
級名グリエルモ・マルコーニ級潜水艦
母港ヴィシーフランスボルドー
BETASOM及びイタリア南仏進駐領域参照)
艦歴
起工1939年2月15日
進水1940年1月6日
竣工1940年5月15日
最期1946年4月16日に海没処分
改名独海軍『UIT25』
日本海軍『伊号第五〇四』
要目
水上排水量1,195トン
水中排水量1,400トン
長さ251フィート (76.50 m)
幅22フィート4インチ (6.81 m)
吃水15フィート7インチ (4.7 m)
主機CRDA製ディーゼル機関(3600hp)
マレリ製電気モーター(1500hp)
2軸推進
速力17.8ノット(水上)
8.2ノット(水中)
乗員57名
兵装OTO 100/47速射砲(it)×1基
ブレダ 13.2mm(75.7口径)単装機銃(it)×4基
53.3cm魚雷発射管×8門(前部4門、後部4門)/魚雷12本
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ルイージ・トレッリ(Luigi Torelli)は、第二次世界大戦イタリア王立海軍(Regia Marina、レジーア・マリーナ)が建造した潜水艦。
概要

グリエルモ・マルコーニ級潜水艦の4番艦にあたり、名称はリソルジメントミラノ反乱など反墺運動を指揮し、統一後は商工大臣を務めた元老議員ルイージ・トレッリ(イタリア語版)に由来する。

第二次世界大戦においては、イタリア王立海軍の潜水艦として商船攻撃に従事していたが、日独伊三国同盟に基づきドイツ海軍遣日潜水艦作戦に協力して、シンガポールに向かった際に母国の休戦と内戦に直面し、そのまま接収艦Uボート(de)としてドイツ海軍に編入され、『UIT25』と改名された。

更に1945年5月にドイツ軍も降伏すると、今度は枢軸国で唯一継戦していた日本海軍に編入、『伊号第五百四潜水艦』[1]に改名されて日本本土での防空作戦に参加して終戦を迎えた[2]。1946年、枢軸国を渡り歩く数奇な運命を辿った潜水艦ルイージ・トレッリは日本海軍の艦艇として紀伊水道連合国に武装解除され、海没処分が行われた[2]
戦歴
建造詳細は「グリエルモ・マルコーニ級潜水艦」を参照

1939年7月27日イタリア王立海軍は外洋航行を目的とする大型潜水艦の建造を計画した。提案を受けてオデーロ・テルニ・オルランド社(Odero-Terni-Orlando、現OTOメラーラ)がグリエルモ・マルコーニ級を設計、1940年2月2日に1番艦『グリエルモ・マルコーニ』が建造された。以降、同型艦として『アレッサンドロ・マラスピーナ』『マッジョーレ・バラッカ』が建造された後、4番艦として本艦が建造された。

設計したグリエルモ・マルコーニ級潜水艦の4番艦にあたり、同型艦にグリエルモ・マルコーニ、アレッサンドロ・マラスピーナ、マッジョーレ・バラッカ、ミケーレ・ビアンキ、レオナルド・ダ・ヴィンチがある。
イタリア海軍時代

1940年5月15日イタリア王国領のリグーリア州ラ・スペツィアに位置するオデーロ・テルニ・オルランド社のムッジアーノ造船所で竣工したグリエルモ・マルコーニ級4番艦『ルイージ・トレッリ』は、翌月に第二次世界大戦が始まると、訓練を経て『グリエルモ・マルコーニ』『アレッサンドロ・マラスピーナ』『マッジョーレ・バラッカ』ら同型艦と共に実戦へ投入された。最初の任務としてリグーリア州沿岸からコルシカ島までのジェノヴァ湾の哨戒任務を行い[3]、次いで地中海から大西洋へ移動する命令を受けてジブラルタル海峡を密かに通過した。

フランスの独伊に対する降伏に伴ってヴィシー政権が成立するとイタリア王国軍は伊仏国境にイタリア南仏進駐領域を形成し、更に大西洋側への海軍基地として南仏の湾港都市ボルドーにも進駐した。大西洋ではドイツ海軍Uボートによる連合国船舶を対象とした通商破壊が行われており、これに助力すべくイタリア海軍は地中海から28隻、紅海から4隻の潜水艦をボルドーに移動させて艦隊を編成した(BETASOM)。

1940年9月29日、その内の一隻として加わった『ルイージ・トレッリ』はリスボンから西アフリカまでの海域を担当する艦隊司令部からの命令を受け、アゾレス諸島への偵察任務を行った[3]。1941年1月15日、3度目の哨戒で連合国の商船を補足、ギリシャ商船『ネメア』『ニコラ・フィルニス』とノルウェー商船『ブレーク』を撃沈し、続いて1月28日にイギリス商船『ウルラ』を沈めた[3]。同年7月21日、7回目のパトロールでにノルウェー船籍のタンカー『イーダ・クヌーセン』を沈め[4]、1942年2月にはイギリス商船『スコティッシュ・スター』、パナマ船籍のタンカー『エッソ・コペンハーゲン』を撃沈した[3]

BETASOMがドイツ海軍式の群狼戦術(ウォルフ・パック)を行う中で、本艦は成果を得られた潜水艦の一つだった。2年間ほどの作戦活動で撃沈した船籍の合計は42,871トンとなった[3]

撃沈数(ルイージ・トレッリ)[5]哨戒日時沈没地点船名船籍トン数付記
3rd1941年1月15日.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯52度33分 西経24度13分 / 北緯52.550度 西経24.217度 / 52.550; -24.217
ファストネット西方700マイル地点付近Nemea ギリシャ5,101トン貨物船、乗組員31名中14名生存
3rd1941年1月15日北緯52度45分 西経23度59分 / 北緯52.750度 西経23.983度 / 52.750; -23.983
大西洋上Brask ノルウェー4,079トン貨物船、乗組員32名中20名生存
3rd1941年1月16日北緯53度00分 西経24度00分 / 北緯53.000度 西経24.000度 / 53.000; -24.000
ロッコール島西方429マイル地点付近Nicolas Filinis ギリシャ3,111トン貨物船、乗組員29名中26名生存
3rd1941年1月28日北緯54度54分 西経19度00分 / 北緯54.900度 西経19.000度 / 54.900; -19.000
アイルランド西方250マイル地点付近Urla イギリス5,198トン貨物船、死亡者なし
5th1941年7月21日北緯34度10分 西経14度45分 / 北緯34.167度 西経14.750度 / 34.167; -14.750
マデイラ島北東70マイル地点付近Ida Knudsen ノルウェー8,913トンタンカー、乗組員5名死亡
8th1942年2月19日北緯13度24分 西経49度36分 / 北緯13.400度 西経49.600度 / 13.400; -49.600


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