伊勢電気鉄道
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この項目では、1915年開業の伊勢電気鉄道について説明しています。路面電車の伊勢電気鉄道については「宮川電気」をご覧ください。

伊勢電気鉄道株式会社
種類株式会社
略称伊勢電、伊勢電鉄
本社所在地 日本
三重県四日市市浜田3698[1]
設立1911年(明治44年)11月10日[2]
業種陸運業
事業内容旅客鉄道事業、不動産業、遊園地事業 他[2]
代表者専務取締役 半田貢[1]
資本金19,100,000円(払込額)[1]
発行済株式総数365,000株[1]
(内新株294,000)[1]
(〃優先株50,000)[1]
主要株主

谷口喜雄 61,847株[1]

四日市銀行 27,714株[1]

奥田仁三郎 22,900株[1]

大垣共立銀行 11,000株[1]

関係する人物熊澤一衛
特記事項:上記データは1936年(昭和11年)現在[1]
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概要
現況近畿日本鉄道の路線として一部存続
所在地三重県岐阜県
路線本線・神戸支線・養老線
(詳細は路線の節を参照)
運営
開業1915年9月10日 (1915-09-10)
全通1930年12月25日
合併1936年9月15日
使用車両車両の節を参照
路線諸元
軌間1,067 mm (3 ft 6 in)

路線図


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伊勢電気鉄道(いせでんきてつどう)とは、大正から昭和初期、三重県地方を中心とする路線を保有した鉄道会社。略称は伊勢電(いせでん)。鉄道国有法で買収された関西鉄道と同じく、本社は三重県四日市市にあった。

伊勢神宮への直通路線を建設し、特急電車の高速運転を行ったが、過剰投資によって最終的には経営に行き詰まり、破綻した。江戸橋駅以北の路線は近畿日本鉄道名古屋線鈴鹿線などとして現存するが、同駅以南の路線は近鉄伊勢線として残されたものの1961年に廃止された。

なお、宇治山田市(後、伊勢市)内における路面電車(後に三重交通神都線となり、1961年全廃)を運営していた宮川電気も、1904年(明治37年) - 1922年(大正11年)の一時期に「伊勢電気鉄道」と称していたことがあるが、本項の伊勢電とは資本など直接的関係はない。
歴史

伊勢電気鉄道の前身企業は、1911年明治44年)に伊勢鉄道(現在の第三セクター伊勢鉄道とは無関係)として設立された。

明治40年(1907年)前後、三重県北勢中勢地域の鉄道路線は関西鉄道(後の関西本線)と参宮線(現在の紀勢本線も含む)が存在した。しかしこれらは内陸の亀山駅を経由したため、沿岸部は鉄道空白地帯であった。津と四日市を線路で結ぼうと計画したのは衆議院議員で伊勢新聞社長の松本恒之助であった[3]。この松本の奔走により鉄道王とよばれた雨宮敬次郎を担ぎだすことに成功するが、雨宮は津と四日市の路線については関西鉄道と並走するため不利とみなし、それより津と歩兵第33連隊の設置の動きのある久居に鉄道をひいたほうがよいとして、松本をはじめ地元の資産家を誘い1906年(明治39年)に伊勢軽便鉄道[4]を設立した[3]1908年(明治41年)には雨宮が経営する日本各地の軽便軌道8社が合併して大日本軌道伊勢支社(のちの中勢鉄道)となった[3]。雨宮の目論みはあたり経営は順調であった。

もっとも松本ら地元の資産家たちは津-四日市間鉄道を断念したわけではなかった。松本は1910年(明治43年)に津 - 四日市駅間の免許を取得して大日本軌道伊勢支社内に事務所を構えた[3](1909年(明治42年)になり伊勢軌道として出願、翌年に軽便鉄道法が公布され伊勢鉄道として出願し、10月に免許状が下付された)。

新会社は1911年(明治44年)11月に創立総会を開き資本金50万円(1万株)と松本が社長に就任が決定し、測量が開始された。測量を担当したのは大株主の才賀藤吉が率いる才賀電機商会で機関車や軌条の調達も仲介することになったものの用地買収に手間取り工事着手が延期する。

1913年(大正2年)4月になり用地を取得したところから工事に着手したものの工事中断、1914年(大正3年)6月工事再開。また資金面でも問題が発生。1914年(大正3年)7月に株式の2回目の支払期限であったが、延滞者が続出した。9月、10月に延滞者13人約4000株が失権するという異常事態となり、事件は損害賠償請求として訴訟沙汰となった。失権者には松本恒之助[5]や才賀藤吉[6]、井上徳治郎[7]などの会社役員が含まれていた。裁判は会社側の勝訴となった。

ようやく1915年(大正4年)9月に一身田町 - 白子間を部分開業。1915年(大正4年)から区間開業を重ね、1924年(大正13年)に津市(後の津新地) - 四日市間が開業。この時点では、四日市と津を結ぶことを目的とした、局地的な鉄道会社であった(この段階で国が伊勢鉄道を買収しなかったことが、後年日本鉄道建設公団による伊勢線→現在の伊勢鉄道の建設につながる)。

開業時点では、国鉄との貨車直通を考慮して軌間を1,067mmの狭軌としたが、単線非電化軽便鉄道とされ路線規格は低く、さらに鉄道技術者に恵まれなかったことや、集落を縫うために(急)曲線が各所に存在する。

伊勢鉄道が大きく飛躍するのは1925年(大正14年)、地元・四日市出身で「東海の飛将軍」と呼ばれた豪腕の有力実業家・熊沢一衛が社長への就任からである。路線を電化し、桑名および大神宮前(伊勢神宮外宮前)への延長や養老電気鉄道の合併(1929年(昭和4年)に実現)などを画策。[8]

こうして当初から直流1,500V電化による高規格な電化工事が開始され、1926年(大正15年)9月11日には社名を伊勢電気鉄道と改称、同年末から電車運転を開始する。南での伊勢神宮、北での桑名への路線延長も進捗し、当面の路線網拡大を1930年(昭和5年)までにほぼ実現させた。

新規建設区間が比較的高規格(複線電化)の路線となったのに対し、電化前からの既存区間は低規格路線を電化したもので、四日市と津の両市内では、市街地を避けるための強引なルートを取らざるを得ず、極端な急カーブ区間が生まれた(四日市駅北の善光寺カーブが特に著名)。

桑名以北では名古屋への乗り入れを計画したが、世界恐慌の影響や過剰投資、さらに木曽川長良川揖斐川木曽三川)越えのための関西本線旧橋梁払い下げに絡んだ疑獄事件のため、経営難に陥った。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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