いせの しげたか
伊勢野 重任
本名同
生年月日 (1903-11-11) 1903年11月11日
没年月日 (1982-04-07) 1982年4月7日(78歳没)
出生地 日本 鳥取県
死没地 日本 愛媛県松山市
職業脚本家
ジャンル劇映画(現代劇・時代劇、剣戟映画、サイレント映画・トーキー)
配偶者大山デブ子
著名な家族2男
伊勢野都詩恵 (妹)
橘喜久子 (義姉)
主な作品
『國士無双』
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伊勢野 重任(いせの しげたか、1903年(明治36年)11月11日 - 1982年(昭和57年)4月7日)は、日本の脚本家である[1][2][3][4][5][6][7][8]。名の読みは「しげとう」とも[9]。映画で2度リメイクされたオリジナル脚本『國士無双』の作者として知られる[1][2][7]。目次 1903年(明治36年)11月11日、鳥取県に生まれる[1]。 愛媛県松山市に移り、1922年(大正11年)3月、旧制・愛媛縣松山中學校(現在の愛媛県立松山東高等学校)を卒業し、東京に移って、東京府東京市麹町区有楽町(現在の東京都千代田区有楽町)にあった東京市役所に務める[1]。中学校の同級生に重松鶴之助(1903年 - 1938年)がおり、先輩には伊藤大輔(1898年 - 1981年)、伊丹万作(1900年 - 1946年)、中村草田男(1901年 - 1983年)がおり、伊藤・伊丹を頼り、映画界に入る[1][8][10]。 片岡千恵蔵プロダクションに入社、記録に最初に登場するのは、満28歳のとき、1932年(昭和7年)1月14日に公開された片岡千恵蔵主演、伊丹万作監督・脚本による、白川小夜子
1 来歴
2 人物
3 フィルモグラフィ
3.1 片岡千恵蔵プロダクション
3.2 日活京都撮影所
3.3 大都映画
3.4 戦後
4 脚注
5 参考文献
6 関連項目
7 外部リンク
来歴
1934年(昭和9年)7月12日に公開された山中貞雄監督・脚本による『足軽出世譚
』のプリントは現存しないが[7]、同作の「原作」にクレジットされている[2][5]。1935年(昭和10年)には、片岡千恵蔵プロダクションを離れ、日活京都撮影所に移籍、高勢実乗・鳥羽陽之助の「極楽コンビ」による『極楽武勇伝』(監督久見田喬二)のオリジナルストーリーを書いている[2][5]。新藤兼人の『日本シナリオ史 上』(1989年)には、「千恵蔵プロの解散後(昭和11年)映画界から姿を消すである」とあるが、伊勢野が同プロダクションの作品を書かなくなったのは日活京都撮影所への吸収合併(1937年)より以前であり、映画界から姿を消したのではなく、東京に移動しているだけである[2][5]。片岡千恵蔵プロダクションの脚本部に在籍したのは1936年(昭和11年)までであり、日活京都撮影所脚本係には1937年に正式に移籍したという記録がある[8]。1938年(昭和13年)あるいは1939年(昭和14年)には京都を離れ、東京・巣鴨の大都映画に入社しており、同年に同社の女優で12歳年下の大山デブ子(当時24歳、1915年 - 1981年)と結婚、撮影所内で結婚披露宴を行った[13][14][15]。この二人を引き合わせたのは、同社の剣戟俳優・松山宗三郎こと小崎政房であり、「デブちゃんを貰わないか」と伊勢野に声をかけたのだという[16]。同社では、1940年(昭和15年)中に、妻の出演した『青春万才』『木曾路八宿』を含め、12本の脚本・原作を書いた[2]。満38歳を迎える1941年(昭和16年)、引退した大山デブ子とともに、東京を離れて松山市内に戻った[17][18]。