伊勢ノ海
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伊勢ノ海(いせのうみ)は、日本相撲協会年寄名跡のひとつ。「伊勢ノ海」という言葉は元来伊勢三重県)の志摩半島三河愛知県)の伊良湖岬囲まれた内海を指し、古来より歌枕として読まれていた場所である。脚注にあるように、平民苗字必称義務令の流れを受けたと思われる形で、日本人の苗字にもなっている名跡名である[1]
目次

1 概要

2 伊勢ノ海の代々

3 関連項目

4 脚注

概要

「大相撲人物大事典」によると3代目から6代目まで「柏戸」の四股名は年寄名跡(二枚鑑札)として名乗られていたと言い、3代目から10代目までは「柏戸」を名乗った力士が部屋を継いでいた。10代目の弟子には横綱まで進んだ柏戸剛がいるが、引退後は鏡山部屋を興している。10代目死去の際、鏡山親方に対し伝統に倣い伊勢ノ海継承の話もあったようであるが固辞し、弟弟子で若くして引退して以来10代目を補佐してきた元・藤ノ川の立川親方が11代目を継承。11代の停年(定年)後は元・北勝鬨の勝ノ浦親方が12代目を継承している。初代から当代まで、師匠から弟子へと連綿と受け継がれた名跡である[2]

初代から9代までは歴代の菩提寺、萬徳院を墓所とする[1]

なお、八百長語源は、八百屋の長兵衛が角界の有力者である7代伊勢ノ海のご機嫌をとるため、実力で遥かに上回るのに関わらず囲碁の勝負で1勝1敗になるように仕向けたからと謂われる。
伊勢ノ海の代々

代目の太字は、部屋持ち親方。

代目引退時四股名最高位現役時の所属部屋襲名期間備考
初代伊勢ノ海五太夫
[3]------?-1774年7月(死去)
2代関ノ戸億右エ門[4]関脇伊勢海部屋1774年10月-1782年2月(死去)二枚鑑札
3代柏戸村右エ門[5]前3伊勢ノ海部屋?-1796年5月(死去)初代柏戸として二枚鑑札
4代柏戸宗五郎大関伊勢ノ海-柏戸-伊勢ノ海
-柏戸部屋1798年3月-10月
?-1818年1月(死去)二枚鑑札
2代柏戸としても二枚鑑札
5代柏戸利助大関柏戸-伊勢ノ海-柏戸部屋?-1830年10月(死去)3代柏戸として二枚鑑札
6代柏戸宗五郎 (2代)[6]前2柏戸-伊勢ノ海-柏戸-伊勢ノ海
-柏戸部屋?-1842年11月(死去)4代柏戸として二枚鑑札
7代柏戸宗五郎 (3代)[7]前1柏戸-伊勢ノ海-柏戸部屋1844年2月-1886年3月(死去)5代柏戸として二枚鑑札
8代柏戸宗五郎 (4代)[8]前2伊勢ノ海部屋1889年1月-1908年7月(死去)二枚鑑札、6代柏戸
9代柏戸宗五郎 (5代)小結伊勢ノ海-式守伊之助
-伊勢ノ海部屋1918年5月-1946年8月(死去)二枚鑑札
10代柏戸秀剛前1春日山-伊勢ノ海-錦島部屋1949年1月-1982年12月(死去)
11代藤ノ川豪人関脇伊勢ノ海部屋1982年12月-2011年9月24日11代勝ノ浦と名跡交換
12代北勝鬨準人前3伊勢ノ海部屋2011年9月25日-

関連項目

伊勢ノ海部屋

脚注^ a b c d e f g h ベースボール・マガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(5) 時津風部屋』p30-34
^ 『大相撲ジャーナル』2017年6月号73頁
^ 力士としての初代は、江戸相撲が中絶状態にあった頃からの力士で、現在の埼玉県加須市戸崎出身。本名は長島。初代春日山鹿右衛門の弟子で、元文から宝暦4年頃にかけて、中相撲から上取力士としてあった。年寄としての初代は宝暦6年冬(番付未発見)に勧進元を届け出て、以後、勧進元5回、差添(勧進元の補佐的地位)12回を務めていることから、相撲会所(現在の日本相撲協会)内で興行的手腕のある中心的人物であったようである。部屋の師匠としては大関白川関右エ門、関脇・関ノ戸億右エ門らを育てた。生年不明で、安永3年(1774年)7月9日没[1]
^ 本名は熊谷重蔵。宝暦7年10月に前頭上段に付け出され、その後小結から関脇を務め、三役力士としての貫録を示した。安永6年10月限りで年寄専務となり、初代同様仙台藩の後ろ盾を得て勢力を維持。自ら勧誘した大黒柱の初代谷風を中心に、多くの門下生が活躍していた。会所内でも初代同様に本場所興業へ貢献したが、天明2年(1782年)4月17日、数え48歳で急死。[1]
^ 本名は出井清次郎。初代の遺弟子。宝暦9年3月場所の五段(現在の大相撲の序ノ口に相当)が番付初見。安永5年1月に前頭上段となったが、大半は二段(現在の幕下に相当)の地位にあり、途中備前池田候のお抱えとなり、三千ノ川強右衛門を名乗ったこともある。安永9年10月には興業的手腕や事務的能力を買われて既に二枚鑑札となっており、天明元年10月限り、数え年44歳で引退。年寄「柏戸」の名義も当初は一代限りであったが、寛政9年(1797年)の「伊勢ノ海太鼓訴訟事件」により年寄名跡に加えられ、1887年ごろまで存在した。年寄としては2代目まで以上に興業的手腕を発揮。勧進元は2回、差添は16回務めており、特に晩年は本場所興業に不可欠な人物であった。弟子育成でも同様に2代目以上の手腕を発揮し、2代目谷風を中心に名力士が続出。直弟子には錦木塚右エ門初代柏戸宗五郎などの関取がいる。一番の功績は寛政3年6月と同6年の上覧相撲開催で、これに取り江戸相撲は明治勤めに大相撲の中心地として確立された。[1]
^ 4代の遺弟子。現在の栃木県小山市鏡出身。本名は木村。生年は寛政5年(諸説あり)。若名乗りは鏡嶋で、後に外ヶ濱と改名。文政8年10月入幕し、13年3月に柏戸宗五郎を襲名。5代伊勢ノ海、2代目未亡人が相次いで死去したため、2代柏戸宗五郎が正式に後継者となり、天保6年1月まで現役の土俵を続けた。弟子には大関・秋津風音右エ門、関脇・黒岩壽太郎、3代柏戸宗五郎などがいる。兄弟弟子同士が指定の関係となったため、相撲研究家筋からは6代伊勢ノ海は何かと苦労があったのだろうと考察されている。保13年11月17日没。行年数え50。[1]
^ 6代伊勢ノ海の弟子。現在の新潟県長岡市小国町上岩田出身。文化7年8月(または7月)生まれ。本名は渡邊寅治。明治に入り(恐らく平民苗字必称義務令に伴う形で)伊勢ノ海五太夫を本名にした。初名は鯱ノ海。その後、猫又、荒飛と改め、天保12年閏1月に入幕し狭布里錦太夫と改名。14年1月場所にしたの名を宗五郎とし、同場所5日目に柏戸を襲名して二枚鑑札に。その間、後継者争いで5代遺弟子で仙台系の年寄関の戸億座衛門(元小結荒熊)と対立したが、若い柏戸が選ばれ、関の戸は廃業している。1847年11月場所限りで年寄り専務となるが、当初は「柏戸宗五郎」のまま年寄となり、嘉永2年(1849年)に正式に伊勢ノ海村右衛門(五太夫)を襲名している。数多くの名力士を育成したほか、相撲会所でないでは世話役(取締)の要職を務めて年寄長老としてあり、晩年は幕内の4代柏戸宗五郎に任せて悠々自適の生活を送った。明治19年(1886年)3月1日没。満75歳。[1]
^ 7代伊勢ノ海の弟子。現在の新潟県柏崎市善根出身。嘉永元年6月10日生まれ。本名は北村忠之助(後に松村姓から伊勢ノ海姓に)。若名乗りの藤ノ川で前相撲から取り進み、明治10年12月場所に入幕。明治14年1月、柏戸宗五郎を襲名。明治19年3月、7代伊勢ノ海の死去に伴い、8代伊勢ノ海を二枚鑑札で襲名。明治22年1月場所には番付面でも伊勢ノ海五太夫と改名し、翌5月場所限りで引退して年寄専務に。桐山・宮城野一門と提携し、勝負検査役(現在の勝負審判に相当)を長く務めた。部屋の師匠としては、預かり弟子、移籍弟子としては大達羽左エ門大碇紋太郎若湊祐三郎滝ノ音調五郎(後の大坂相撲横綱・八陣調五郎)らを育てた。明治41年7月26日没。満60歳。残された弟子たちは、明治42年春場所のみ9代式守伊之助に預けられた。[1]


この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めていますPJ相撲)。


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