伊予国
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2018年4月)

伊予国

■-伊予国
■-南海道
別称予州(よしゅう)[注釈 1]
所属南海道
相当領域愛媛県全域、高知県のごく一部
諸元
国力上国
距離遠国
数13郡66郷
国内主要施設
伊予国府(推定)愛媛県今治市
伊予国分寺愛媛県今治市(伊予国分寺塔跡
伊予国分尼寺愛媛県今治市(伊予国分尼寺塔跡)
一宮大山祇神社(愛媛県今治市)
テンプレートを表示

伊予国(いよのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。愛媛県にあたる。
「伊予」の名称と語源

伝統的には「伊豫」の名称であり、「伊予」「伊与」の表記も用いられた。常用漢字による現代文表記では「伊予」(豫→予)である。

「伊予」の語源については、諸説がある。

温泉説「よ」は道後温泉の「ゆ(湯)」から転訛したものであり、それに発語の「い」を付して「いよ」になったという説である。一時は定説となっていたが、研究者の吉田茂樹が、延喜式に「伊予郡」と「温泉郡」の2つの郡名があり、伊予が道後温泉を指すならば別に温泉郡がある説明がつかないと指摘したことから、今日は否定されているとされる[1]。また、寺内浩他編の『愛媛県の不思議辞典』も、上代特殊仮名遣からみて、一般的には「ゆ」は「よ(乙)」には音韻変化しないとしてこの説を否定する。


湧水説研究者の志賀剛の説では、古代人は、温泉以外に湧水も「いゆ」と呼んでおり、これが「いよ」になったとする[1]。古代、水の湧き出ずる所は、特別な地として扱われるようになり、これが湧水の周辺を指す小地域としての地名から、より広い地域、さらには古事記にいう「伊予の二名之島」=四国を指す地名となっていったというものである。坪内寛もこの説を支持し、伊予神社(愛媛県伊予郡松前町)で、同神社は「正四位上」の位を朝廷から授けられた由緒正しい神社であり、祭神を愛比売命(えひめのみこと)と月夜見命(つきよみのみこと)とする。「愛比売」は古事記に、「伊予を愛比売といひ」とあるように愛媛の古名である。また、同名の伊予市上野地区にある神社の旧境内跡地には弥光井(いこい)神社(今日では湧水跡のみ)がある。古代、この地はゆるやかな傾斜地であり、水源に乏しかったことから、湧き水が特別重宝されたと推察されていることから、弥光井神社が伊予の語源であると主張する[1]

弥説谷川士清の『倭訓栞』に載せる説である。伊豫ノ二名ノ洲と呼ばれた四国は国生み神話では淡路島の次に生まれたので、「いよ」は物の重なることを表す「弥」(いや)の意味であるという。

預説『豫章記』に載る説である。「天神第六代面足惶根尊」が伊豫国を支配する際に「(伊豫国を)伊(彼に)豫(預ける)」との詔があったという。しかし、「いよ」が倭語であったとすれば、万葉仮名による仮借字の字義で解釈しようとするのは無意味である可能性がある。

領域

明治維新直前の領域は、現在の愛媛県全域に高知県宿毛市の一部(沖の島町母島・沖の島町鵜来島)を加えた区域に相当する。なお、高知県内の区域は1876年明治9年)に土佐国に移管されている。
沿革

律令制において、伊余国造の領域に加え、久味国造風速国造怒麻国造小市国造の領域を合わせ、成立した。

三島領七島と呼ばれた大山祇神社領のうち、文明年間から慶長年間までの間、下島(大崎下島)と豊島安藝国豊田郡に編入となる[2]
近代以降の沿革

旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での国内の支配は以下の通り(964村・434,408石7斗5升)。幕府領松山藩預地。太字は当該郡内に藩庁が所在。

宇摩郡(56村・22,364石余) - 幕府領、今治藩、西条藩

新居郡(53村・36,694石余) - 幕府領、西条藩、小松藩

周敷郡(38村・23,142石余) - 松山藩、西条藩、小松藩

桑村郡(29村・14,650石余) - 幕府領、松山藩

越智郡(106村・46,790石余) - 幕府領、今治藩、松山藩

野間郡(29村・16,587石余) - 松山藩

風早郡(84村・18,351石余) - 幕府領、松山藩、大洲藩

和気郡(25村・16,345石余) - 松山藩

温泉郡(36村・22,824石余) - 松山藩

久米郡(32村・17,554石余) - 松山藩

浮穴郡(102村・38,834石余) - 松山藩、大洲藩、新谷藩

伊予郡(41村・27,949石余) - 松山藩、大洲藩、新谷藩

喜多郡(83村・33,491石余) - 大洲藩新谷藩

宇和郡(250村・98,828石余) - 宇和島藩吉田藩


慶応4年1月27日1868年2月20日) - 戊辰戦争により松山藩預地が高知藩預地となる。

明治4年

1月19日1871年3月9日) - 高知藩預地が倉敷県の管轄となる。

7月14日(1871年8月29日) - 廃藩置県により、藩領が今治県西条県小松県松山県大洲県新谷県宇和島県吉田県の管轄となる。

9月14日(1871年10月27日) - 倉敷県の管轄地域が丸亀県の管轄となる。

11月15日(1871年12月26日) - 第1次府県統合により、宇摩郡・新居郡・周敷郡・桑村郡・越智郡・野間郡・和気郡・温泉郡および風早郡・浮穴郡・伊予郡のうち丸亀県・松山県の管轄地域が松山県、久米郡・喜多郡・宇和郡および風早郡・浮穴郡・伊予郡のうち大洲県・新谷県の管轄地域が宇和島県の管轄となる。



次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:68 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef