伊丹十三
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小惑星については「伊丹十三 (小惑星)」をご覧ください。
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いたみ じゅうぞう
伊丹 十三
婦人生活社『婦人生活』2月号(1966年)より
本名池内 義弘(いけうち よしひろ)
別名義池内 岳彦(いけうち たけひこ)
伊丹 一三(いたみ いちぞう)
生年月日 (1933-05-15) 1933年5月15日
没年月日 (1997-12-20) 1997年12月20日(64歳没)
出生地 日本京都府京都市右京区鳴滝泉谷町
死没地 日本東京都港区麻布台
職業映画監督俳優エッセイスト商業デザイナーイラストレーターCMプランナードキュメンタリー映像作家
ジャンル映画
活動期間1959年 - 1997年
配偶者川喜多和子
川喜多長政長女)
1960年 - 1966年
宮本信子
1969年 - 1997年
著名な家族伊丹万作(父)
伊丹キミ(母)
池内万作(長男)
池内万平(次男)
主な作品
映画
お葬式
タンポポ
マルサの女』シリーズ
ミンボーの女
スーパーの女
マルタイの女

 受賞
日本アカデミー賞
最優秀監督賞
1985年お葬式
1988年マルサの女
最優秀脚本賞
1985年『お葬式』
1988年『マルサの女』
ブルーリボン賞


監督賞

1985年お葬式

その他の賞
キネマ旬報ベスト・テン
日本映画監督賞
1985年『お葬式』
1988年『マルサの女』
脚本賞
1988年『マルサの女』藤本賞
1984年『お葬式』芸術選奨新人賞
1985年

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伊丹 十三(いたみ じゅうぞう、1933年昭和8年〉5月15日 - 1997年平成9年〉12月20日)は、日本映画監督俳優エッセイスト雑誌編集長、商業デザイナーイラストレーターCMプランナードキュメンタリー映像作家。料理通としても知られた。本名は池内 義弘(いけうち よしひろ)。
人物

大ヒット映画作品を連発した映画監督である[1]。監督デビューは51歳と遅咲きだったが、それまでに表現手段を追究する職を多数経験し、その集大成として映画に挑戦し、ヒットメーカーとなった[1]

1984年の監督デビュー作である『お葬式』からいきなり数々の映画賞を獲得するなど絶賛を浴びた[2]。その後、『タンポポ』『マルサの女』『マルサの女2』『あげまん』『ミンボーの女』『大病人』『スーパーの女』『マルタイの女』などを演出し、いずれも大ヒットを記録した[2]。しかも一般観客からも映画評論家からも、ともに高く評価されていたことは特筆に値する[2]

俳優としての出演も数十作品に及び(#出演作品を参照)、1983年(昭和58年)公開の『家族ゲーム』『細雪』の演技でキネマ旬報助演男優賞を受賞。エッセイストとしての代表作には『ヨーロッパ退屈日記』『女たちよ!』『小説より奇なり』など。CM出演も多数(#CM)。

妻の宮本信子は、伊丹の監督デビュー後は伊丹作品の多数で主演女優として作品のヒットに貢献し、それ以前から家庭でも多面的にその成功に貢献しつづけていた。二人の間の長男の池内万作も俳優となった。

愛媛県松山市伊丹十三記念館が開設され、多方面にわたる才能を持ち容易に語ることはできない伊丹の足跡が紹介されている。また伊丹を記念してその名を冠した「伊丹十三賞」がさまざまな表現者たちに贈られている。

周防正行は『マルサの女』のメイキング映像を撮影してくれと依頼され、それを撮影することにより伊丹の映画製作現場や監督業をつぶさに観察する機会を得たことで、自身も映画監督となるきっかけをつかみ、伊丹同様に日本映画界を盛り上げてゆく存在となった。
来歴

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出典検索?: "伊丹十三" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2020年9月)

幼少 - 青年期

映画監督の伊丹万作を父に、京都市右京区鳴滝泉谷町に生まれる。池内家の通字が「義」だったため、祖父の強い意向で戸籍名は義弘と命名されたが、父は岳彦と命名する予定だったため家庭では父の意向により「岳彦(たけひこ)」「タケチャン」と呼ばれて育ち、本人も岳彦だと思い育った。そのようなややこしい事情があったので、戸籍名は一応は「池内 義弘」(いけうち よしひろ)だが、むしろ「本名・池内岳彦(いけうち たけひこ) 」とも。生後7か月で京都市右京区嵯峨野神ノ木町に転居。2歳の時、妹ゆかり(長じてのち1960年に大江健三郎と結婚)が誕生。

1938年4月末、父の東宝東京撮影所移籍に伴い東京市世田谷区祖師谷に転居。1940年、世田谷区立桜第一小学校[注 1]入学。

1940年末の父の東宝退社に伴い、1941年、京都市上京区(現・北区)小山北大野町に転居、京都師範男子部附属国民学校(現・京都教育大学附属京都小学校)に転校。1944年、同校の特別科学教育学級に編入される。この学級では、戦時中としては例外的な早期英語教育を受ける。級友に湯川秀樹の長男湯川春洋や、貝塚茂樹の長男で経済学者の貝塚啓明、日本画家の上村淳之がいる。1946年、京都府立第一中学校(現・京都府立洛北高等学校)入学の年に父が死去。同窓に共同通信労組の林直久がいた。1947年10月、京都府立洛北高等学校併設中学校に転校。1948年10月、京都府立山城高等学校併設中学校に転校。1949年4月、京都府立山城高等学校に入学。夏より、スクリプター野上照代が「飯炊き係」として約1年同居し世話をした[3]1950年1月以降は休学。

1950年愛媛県松山市小坂町の寺院・多聞院の一室に移り、母や妹と同居を開始。1950年4月14日、1学年遅れで愛媛県立松山東高等学校に転入。同校では文藝部誌「掌上」第1号に黒田 匡の筆名で創作「気分」を発表。また、巻末の「編輯雑感」にも池内 義弘の名で執筆。1951年、2年次から転入した大江健三郎と親交を結ぶ。同年8月1日、同校演劇部の「彦一ばなし」「夕鶴」などの公演に裏方として参加。同年10月から休学。

1952年4月、愛媛県立松山南高等学校2年次に転入。1954年3月、20歳で同校を卒業[4]。その後に上京し、新東宝編集部に就職。
商業デザイナー時代

同年、新東宝での映画編集の仕事を経て商業デザイナーとなり、車内の吊り広告や目次のデザインなどを手がける。この頃山口瞳と出会い、のちに山口の小説『人殺し』のタイポグラフィを手がけるなど、生涯にわたる親交を結ぶ。デザイナーとしての手腕は晩年まで活かされ、自著をはじめとする本の装丁、ブックカバー、ポスター、宮本信子の楽屋暖簾などもデザインした。とくにレタリングには定評があり、映画監督の山本嘉次郎によれば「伊丹十三さんの明朝体は、日本一である。いや世界一である」と評するほどだった。[5]
マルチタレントとして活躍

舞台芸術学院に学び、1960年1月、26歳の時大映に入社、父伊丹万作と小林一三の名にちなみ「伊丹 一三」という芸名を永田雅一にもらい[6]俳優となる。

身長は180cm[7]。当時の日本人としては、そして俳優としても、かなり背が高い方だった。

1960年5月11日にスクリプター野上照代より、日本映画界の巨人である川喜多長政川喜多かしこの娘の川喜多和子を銀座のバーで紹介され、同年7月13日に東京・国際文化会館にて結婚。[8][9][10][注 2]式には、結婚したばかりの作家であり友人の大江と妹ゆかりも参列した。

1961年大映を退社する。その後『北京の55日』(1963年)『ロード・ジム』(1965年)などの外国映画に出演し、話題となる[12]

1962年に妻・和子と自主短編作品『ゴムデッポウ』を制作、1963年勅使河原宏監督の「砂の女」と同時上映された。

1965年には、外国映画に出演した際のロケ道中をまとめたエッセイ『ヨーロッパ退屈日記』を出版しヒット。その後も『女たちよ!』など軽妙なエッセイを次々と発表し、文筆業にも活動の場を広げた[13][要ページ番号]。

NHKドラマ「あしたの家族」(1965年?1967年)で、共演者の一人であった女優宮本信子と不倫交際に発展した[14]


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