伊上勝
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いがみ まさる
伊上勝
本名井上 正喜(いのうえ まさき)
生年月日 (1931-07-14)
1931年7月14日
没年月日 (1991-11-16) 1991年11月16日(60歳没)
出生地 日本群馬県
職業脚本家
活動期間1958年 - 1988年
配偶者あり
著名な家族

長男:井上敏樹

孫:井上亜樹子

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伊上 勝(いがみ まさる[1][2]、本名:井上 正喜(いのうえ まさき)[1][3][2]1931年7月14日 - 1991年11月16日[1][2])は、日本脚本家群馬県出身[1][2]。他に「井上 勝」[1][2]、「森 利夫」[4]などの筆名があった。

長男は脚本家の井上敏樹[5]。孫は脚本家の井上亜樹子
来歴

群馬県立高崎高等学校を卒業後、明治大学に進学。文学部でフランス文学を専攻し、27歳で卒業。広告代理店宣弘社に入社[1][2]

東芝商事がテレビ・ラジオ用脚本を募集しているのを知り『遊星王子』の脚本を一晩で書き上げて応募したところ入選。テレビドラマとなったこの『遊星王子』(日本テレビ)の原作・脚本を務めてデビュー[3][2]

以後『豹の眼』(TBS)・『快傑ハリマオ』(日本テレビ)など、宣弘社のテレビ冒険活劇物の脚本を執筆した[1][2]

隠密剣士』(TBS)では「忍者ブーム」を巻き起こす[1]

この『隠密剣士』で伊上が宣弘社のプロデューサー西村俊一と共に投入した様々な忍術小道具や忍法などのアイディアは、時代劇の中での「忍者物」の基本パターンとして今日にまで踏襲されるものとなった。

1965年(昭和40年)、34歳。『新隠密剣士』を執筆後、宣弘社を退社してフリーとなる[1][2]

1966年(昭和41年)、35歳。宣弘社で『隠密剣士』を手がけた西村俊一・船床定男と共に、東映京都の特撮時代劇映画『大忍術映画 ワタリ』に参加[1]。公開後に大ヒットし、続いて同じ東映京都で特撮時代劇『怪竜大決戦』を手がけた。

同年、東映から依頼を受けて東映テレビ部の『悪魔くん』(東映、NET)に参加[1]。以後、長きに渡りコンビを組むことになる東映プロデューサーの平山亨との初仕事となる。

1967年(昭和42年)、36歳。『仮面の忍者 赤影』(東映京都、関西テレビ)で、全52話分の脚本を執筆した。

同年、『ジャイアントロボ』(東映、NET)を担当。同作の怪獣のアイディアは、後の『仮面ライダーシリーズ』に登場する怪人達の元になったと語っている。悪の組織の大幹部が次々と交代するフォーマットも本作で確立された。『仮面の忍者 赤影』は組織ごとチェンジする方式であり、ともに『仮面ライダーシリーズ』で応用されている。

1968年(昭和43年)、37歳。『サイボーグ009』(東映動画、NET)でアニメ作品の脚本を執筆する。

1971年(昭和46年)、40歳。『仮面ライダー』(東映、毎日放送)では初期企画『クロスファイヤー』の段階から参加、平山と2人で企画を練り、メインライターを務める。同作品は「変身」が「変身ブーム」として社会現象となる大ヒット作品になった。

同年、『帰ってきたウルトラマン』(円谷プロ、TBS)の脚本を執筆し、東映・円谷プロ両社にまたがる活躍を見せる。この作品では、伊上による没脚本に登場する怪獣「キングザウルス」の設定が、劇中のエピソードで「キングザウルス三世」の名に転用されている。

以後、仮面ライダーシリーズをはじめとする変身ヒーロー番組を数多く手がけた[2]

1977年(昭和52年)、46歳。長編映画『恐竜・怪鳥の伝説』(東映京都)に参加。

1978年(昭和53年)、47歳。『宇宙からのメッセージ』小説版を執筆。

1981年(昭和56年)、50歳。『仮面ライダースーパー1』(東映、毎日放送)以降は、単発で『水戸黄門』(TBS / C.A.L)などを執筆した他は、脚本家からほぼ一線を退いた。

1986年(昭和61年)、55歳。『仮面ライダー大全集』(講談社刊)にミニ・ストーリーを寄稿。その内容は、伊上・平山・阿部・立花藤兵衛の下へ本郷猛からメッセージ・テープが届き「ショッカーがアフリカの地下に大帝国を築いており、今、仲間のライダー達を集め、決戦の準備中である」と本郷が伝える、という内容だった。

1988年(昭和63年)、57歳。『水戸黄門第17部・第18部』(TBS / C.A.L)の脚本を数話執筆し、脚本家を引退した。

1991年(平成3年)11月16日、肝硬変のため死去。60歳没。
人物・作風

特撮ドラマを中心に数多くの作品を手がけ、現在の特撮番組のフォーマットを作った人物として知られる[2]。特に全話の脚本を執筆した『仮面の忍者赤影』、空前の大ヒットを記録した『仮面ライダー』に始まる仮面ライダーシリーズは、その代表作として挙げられる。また、関わった番組の大半で番組主題歌・挿入歌の作詞も手がけている。

紙芝居が好きで、中学生時代には教師に頼まれて授業中に自作の紙芝居を読むこともあったという[5]。長男の井上敏樹は、伊上のシナリオはシーンの繋がりを考慮せず美味しい場面を羅列した「紙芝居的」な作風と評しており「紙芝居を作っていた時の手法のまま執筆していたのではないか」と推測している[5]

東映プロデューサーの阿部征司は『仮面ライダー』の初期は早かったが、担当作品が増えたこともあり締め切りによく遅れたと証言している[5]。一方で、執筆にあたってはプロットなしで全面的に任せることも多かったという[6]

大変な酒豪として、また豪快な人となりでも知られた。好きな料理中華料理で、酒は何でも飲めたが一番好きだったのは紹興酒。小食であり料理も酒のあてに食べることが多かった。ただしウイスキーは若い頃、酔った弾みで誤って窓ガラスを割り怪我をした事でそれ以降敬遠していたが、晩年は牛乳で割って飲んでいた。


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