任那日本府
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このページのノートに、このページに関する議論があります。(2024/1月)
議論の要約:概要を始めとした内容においての日韓歴史共同研究委員会での結論についての取り扱い方

任那日本府(みまなにほんふ)は、古代朝鮮半島にあったとするヤマト王権の出先機関ないし外交使節、またその学説。『日本書紀』を中心に、複数の古文書にそれらの存在を示唆する記述がある。1991年平成3年)、日本の「前方後円墳」と類似した様式の墓が朝鮮半島南部で発掘され、倭系集団の存在が浮上した。2010年(平成22年)に日韓歴史共同研究委員会は、任那日本府(原表記「在安羅諸倭臣等」)に関しては、史料を無視してでも、その存在を極小化したい韓国側と、史料に基づいて大和王権への臣従関係が認められるとする日本側と対立し共通見解の確定には至らなかった。[1]
概要

(古代日本)が朝鮮半島南部に設置した統治機関として『日本書紀』に言及されているものである。少なくとも、下記に列挙される史実を根拠として、倭国と関連を持つ何らかの集団(倭国から派遣された官吏軍人、ヤマト王権に臣従した在地豪族、あるいは倭系百済官僚、等々)が一定の軍事的・経済的影響力を有していたと考えられている。
『日本書紀』をはじめ、中国朝鮮の史書でも朝鮮半島への倭国の進出を示す史料が存在する(倭・倭人関連の朝鮮文献)(倭・倭人関連の中国文献)。

好太王碑』に倭が新羅や百済を臣民としたと記されている[注釈 1][注釈 2]など、朝鮮半島での倭の活動が記録されている。

新羅百済伽耶の勢力圏内で日本産のヒスイ製勾玉が大量に出土(高句麗の旧領では稀)しているが、朝鮮半島には勾玉に使われるヒスイ(硬玉)の産地はなく、東アジア全体でも日本の糸魚川周辺とミャンマーしか産地がないこと[注釈 3]に加えて、最新の化学組成の検査により朝鮮半島出土の勾玉が糸魚川周辺遺跡のものと同じであることが判明している[注釈 4]

幾多の日本列島独特の墓制である前方後円墳が朝鮮半島の全羅南道で発見されているが、この地は任那四県とよばれる広義の任那の一部である[注釈 5][注釈 6][注釈 7]

宋書』倭国伝のなかで451年南朝宋文帝が倭王済(允恭天皇に比定される)に「使持節都督・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」の号を授けた記述や478年、南朝宋の順帝が倭王武(雄略天皇に比定される)に「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」の号を授けたと記述している。
詳細は「倭の五王」を参照
歴史史料にみえる任那
中国

宋書』では「弁辰」が消えて、438年条に「任那」が見え、451年条に「任那・加羅」と2国が併記される。その後の『南斉書』も併記を踏襲している。

梁書』(629年成立)は、「任那・伽羅」と表記を変えて併記する。


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