任侠映画
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ヤクザ映画(ヤクザえいが)は、犯罪映画の中でも日本ヤクザ暴力団の対立抗争任侠などをモチーフとするカテゴリーである[出典 1]

仁侠映画(にんきょうえいが)とも称される[出典 2]東映を中心に1960年代から70年代にかけて一大ジャンルを築いた[出典 3]

本項では、その東映を筆頭に各社がこのジャンルの映画を量産した[1]1960年代から70年代を中心に、その後の状況までを記述する。
歴史

やくざ自体を主題とする映画は、長谷川伸の『瞼の母』や子母澤寛股旅[出典 4]伊藤大輔監督の『忠次旅日記』など、戦前からあった[出典 5]。また戦後も『清水の次郎長伝』『次郎長意外伝』『次郎長富士』『国定忠治』など[10]、盛んに制作された[出典 6]清水の次郎長が登場する映画は約200本[10]国定忠治が登場する映画は約130本ぐらいあるとされる[10]。ヤクザ映画は日本人の心情になじんだ主題を現代に置き換えたもので[6]、制作が本格化するのは日本経済が高度成長に向けて走り始めた1960年代に入ってからである[出典 7]
ヤクザ映画という呼称

「やくざ映画」という呼称が一般化したのは、1963年当時の東映東京撮影所(以下、東映東京)所長・岡田茂鶴田浩二主演・沢島忠監督でプロデュースした『人生劇場 飛車角』を大ヒットさせてからである[出典 8]。「やくざ路線」という呼称は『人生劇場 飛車角』封切時の文献に既に見られる[出典 9]

欧米のギャングマフィアを描いたジャンルはギャング映画と称され[26]、東映でも任侠路線を敷く前史として岡田が「東映ギャング路線」を敷いていた時期があった[出典 10]
東映任侠路線

翌1964年に岡田茂が東映京都撮影所(以下、東映京都)所長に復帰すると同撮影所のリストラを進め[出典 11]、不振の続く従来型の時代劇テレビに移し[出典 12]、時代劇映画からヤクザ映画(任侠映画)路線の転換を行う[出典 13]。東映東京で成功した任侠路線を東映京都改革の切り札として持ち込み[出典 14]、その任侠二大路線として、初の本格的ヤクザ映画、鶴田浩二主演「博徒シリーズ」と高倉健主演「日本侠客伝シリーズ」を企図した[出典 15]。『日本侠客伝』は岡田が、亡き主君のために復讐を成し遂げた義理堅い武士たちの物語、日本の古典忠臣蔵』をモデルに構想したものである[2]。『映画ジャーナル』は1965年10月号で「東映の岡田茂は、沈滞した京都でひとり奮闘し、鶴田浩二、高倉健を主軸に新時代劇ともいうべき明治・大正ものを生み出して、近年稀なヒットシリーズを連作して気を吐いている」と評されている[31]。同号は岡田と鈴木?成大映プロデューサーとの対談であるが[31]、岡田は「ぼくが京都の撮影所所長になって、時代劇ファンを呼び戻そうと、いろいろテを替え品を替えやってみたんですが、どうも結果がよくない。それで大映の『座頭市』というヒット時代劇を見て、『これはほんとうの時代劇なのだろうか、非常に特殊な作品系列に属するものでないか』などと考えたんです。それで思い切って、時代を明治、大正に求めてやってみた。『日本侠客伝』や『関東流れ者』のような大正やくざは、時代劇だという観念で作ったわけです」などと述べている[31]。岡田は博打シーンのリアルさを求め[41]、撮影所に本職のヤクザを招いて、キャスト・スタッフに演技指導させた[41]。本職が撮影所内を大勢で闊歩するようになったのはこれが始まり[出典 16]。これらは大成功し、次々に人気任侠シリーズが生まれ[1]、観客動員No.1に返り咲き、興行的にも大成功した[出典 17]。こうして東映自ら一連の企画を「やくざ路線」と呼称しはじめた[43]。この東映任侠路線の成功が他社にも波及し[24]、その数が急増するにつれて、この「やくざ路線」的な企画が他社にも波及しはじめたとき、ジャーナリズムがそれらを一括して「やくざ映画」と呼びはじめたのである[43]佐藤忠男は「この一連のやくざ映画を、それまでにもあった時代劇のやくざものや現代劇の暴力団ものとは違う独特の美学を持つものとして区別するために呼んだのが任侠映画という呼称」と述べている[3]。これらは少しは誤りで『人生劇場 飛車角』公開時のプレスシートに「東映やくざ路線の第一弾として重厚味を持った意欲作である」と明記され[24]、『月刊明星』1963年4月号の『人生劇場 飛車角』を紹介する頁にも「東映が新しく打ち出したやくざ路線の第一弾」と書かれており[44]、『人生劇場 飛車角』を公開する際に「やくざ映画」や「やくざ路線」という言葉は使用されていた[出典 18]

それまで、この呼称は戦前派侠客の映画を指しており、明治から昭和初期までの時代の侠客を主人公として映画も既に存在していたが、かくも大量に作られはじめたのは日本映画史上、はじめてである[43]。やくざ映画は日本映画史の一角を占め、一つの様式美を作った[45]。この名称が定着すると、それはヤクザ者を主人公とするあらゆる映画への適用範囲を広げ、以前は「股旅映画」と呼ばれていた類の時代劇から、戦後を背景としたギャング映画や不良少年映画までも、ヤクザ映画と呼ばれるようになったのが、1970年以降[43]。東映を中心とした1960年代の「やくざ映画」は「任侠映画」と呼ばれるが、「任侠映画」という呼称は1970年前後の文献に見られる[46]

1966年、大手新聞がヤクザ映画を誌上で批判しても結局、映画の題名を新聞の発行部数だけ撒き散らすことになり、ヤクザ映画に利するだけという判断に立ち[47]、ヤクザ映画の批評を一切しないという密約を交わし[47]、ヤクザ映画はエロダクション並みにミニコミ扱いを受けた[47]。この処置に腹を立てた東映は、「それならヤクザ映画の試写会は一切やらない」と開き直った[47]。今日の試写会状況は分からないが、1990年代ぐらいまでは、新聞記者映画評論家は各社の新作の試写をタダで見て、その引き換えとして新聞や雑誌に記事を載せていたため[47]、東映のヤクザ映画が好きな映画評論家はもとの庶民に戻り、ゼニコを払ってヤクザ映画を見なければならなくなった[47]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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