仮面舞踏会_(ヴェルディ)
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『仮面舞踏会』(かめんぶとうかい)は、ジュゼッペ・ヴェルディが作曲し、1859年2月17日に初演された全3幕からなるオペラである。
作品のデータ

原語曲名:Un ballo in maschera

原作:
ウジェーヌ・スクリーブの戯曲「グスタフ3世 または 仮面舞踏会」

台本:アントニオ・ソンマ

初演:1859年2月17日、ローマ・アポロ劇場

日本初演:1923年1月31日 東京・帝国劇場 カーピ歌劇団

邦人初演:1959年10月4日 東京・文京公会堂 東京オペラアカデミー[1]

作曲の経緯

シモン・ボッカネグラ」(1857年3月初演)の次作としてヴェルディが作曲した作品。1856年、ナポリサン・カルロ劇場から、翌57年に上演する新作歌劇の作曲依頼を受けたヴェルディは「シモン」初演後にナポリへの新作に取りかかる。この時ヴェルディはそれまで10年以上構想を温め続けていたシェイクスピアの『リア王』のオペラ化を計画したが、サン・カルロ劇場がヴェルディが望む歌手たちと契約しなかったことで『リア王』オペラ化計画は頓挫した。そこで新たな題材を探すことになり、ヴェルディが選んだのがスクリーブの戯曲であった。この戯曲は、スウェーデン啓蒙専制君主グスタフ3世1792年仮面舞踏会の壇上で暗殺(スウェーデン語版)された事件を題材に、王と暗殺者アンカーストレム伯爵の妻との架空の恋を絡ませたもので、スクリーブがコンビを組んでいた作曲家オーベールの歌劇のために執筆、オーベール作曲「ギュスターヴ3世」は1833年、パリ・オペラ座で初演、成功を収めていた。ヴェルディは『リア王』台本を依頼していたアントニオ・ソンマに、スクリーブの台本の再構成・潤色を行なったうえでの上演用台本作成を依頼する。ソンマは要請にしたがって作業を開始、ヴェルディはソンマの台本に通常通り細かく目を通し、再三にわたって推敲を求めつつ、台本作成と並行して作曲に取りかかる。劇場側は1857年11月に台本の粗筋をナポリ当局に提出、検閲の結果、当局は暗殺事件をできるだけ想起させない内容に変更するよう要求してきた。ヴェルディは劇場側やソンマたちと対策を打ち合わせて多少の変更も折り込みつつ作曲、11月中に台本は完成、同年暮れにはほぼ全曲の作曲も完成する。

当時はイタリア統一運動(リソルジメント)が激化していた時期であり、フランスの影響が強く、検閲の厳しいナポリで国王暗殺事件を扱う作品の上演は上記のように簡単ではなかった。ヴェルディは書き上げた総譜を携え、恋人ジュゼッピーナ(既に長年同棲している内縁の妻)を伴って1858年1月からナポリに滞在、劇場側は題名を『ドミノの復讐』とし、ヴェルディとの打ち合わせ通り内容にも多少変更を加えてナポリ検閲当局と交渉したが、折悪しく1858年1月にイタリアの民族主義者フェリーチェ・オルシーニが、フランス皇帝ナポレオン3世暗殺未遂事件をおこしたことなどから、検閲当局は支配者の暗殺場面の上演など許可できない、と態度を硬化させ、支配者が死ぬ設定や舞踏会の場面の削除など、更に内容の大幅な改訂を要求する。劇場側は対応策として、ソンマとは別の脚本家に密かに依頼して新しい台本を書いてもらい、その台本を上演用にとヴェルディに提示したという。ヴェルディは当局の要求について、台本のみならずもはや音楽の根幹にも関わる要求だとして劇場側の提案も即座に拒否、上演の可能性を更に探りたいサン・カルロ劇場は契約不履行だとしてヴェルディを告訴、彼に賠償金を要求する事態となる。ヴェルディも即座に劇場側を告訴して応戦の構えを見せたが、結局ヴェルディが1858年秋の同劇場での上演作を「シモン・ボッカネグラ」に切り替えるという代案を出すことで双方が告訴を取り下げ、事態は一応収束、非建設的な泥沼化は避けられた。新作上演は結局一旦断念せざるをえず、ヴェルディは1858年4月末、ナポリを去ることになる。

ヴェルディ最新作の上演計画がナポリで頓挫したとの知らせはすぐイタリア中に広まり、ミラノ、ローマなど諸都市の一流劇場から新作の上演希望がヴェルディのもとに寄せられた。ヴェルディ自身も勿論心血を注いだ仕事を「お蔵入り」にするつもりはなく、幾つもの候補の中からヴェルディはローマのアポロ劇場と上演契約を締結する。同劇場支配人ヤコヴァッチから、当時ローマ法王の直轄地であったローマでは検閲が比較的寛容で、ヴェルディの望む形態での上演を実現しやすいことを熱心に説かれたことや、以前同劇場で『イル・トロヴァトーレ』を初演した経験があったこと、またローマでスクリーブ作「ギュスターヴ3世」が歌劇ではないが演劇作品として上演されていたことなどが劇場選定の決め手になったといわれる。


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