仮名手本硯高島
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『仮名手本硯高島』(かなでほんすずりのたかしま)とは、歌舞伎の演目名で忠臣蔵物のひとつ。二代目河竹新七(河竹黙阿弥)作。通称『赤垣源蔵』。安政5年(1858年)5月、江戸市村座で初演された。初演以降、そのなかの「塩山邸玄関の場」及び「同座敷別れの場」がもっぱら演じられており、以下これを中心に解説する。


目次

1 あらすじ

2 解説

3 初演の時の主な役割

4 参考文献

5 関連項目


あらすじ

執権高師直より受けた侮辱により、これを斬ろうと殿中で抜刀して果たせなかった塩谷判官は切腹、お家はお取り潰し。判官の家臣大星由良助たちは師直を主君の仇と狙って討たんとしていた…と、この芝居の設定は『仮名手本忠臣蔵』等の世界に基づいている。
塩山邸玄関の場・同座敷別れの場

雪の積もる、十二月の冬の日。秋坂藩の家老塩山与左衛門の屋敷に、主の与左衛門が勤めを終えて帰ってきた。すると玄関前で家の中間が大酒を呑んでひどく酔っ払い、投げた雪玉が与左衛門につい当ってしまうが、与左衛門は寛大にもこれを許し下がらせる。与左衛門には中垣源蔵という弟がおり、これが塩谷判官の家中となっていたがお取り潰しになって以来、浪人の身で毎日大酒をあおっていた。兄の与左衛門は酒を呑んで暴れる中間を見て、源蔵のことを思い出したのであった。

そういえばその源蔵が、しばらく塩山家に来ないが…と与左衛門が妻のさみや息子の与之助とくつろいで話をしていると、主君より再びの呼び出しを受けたので参上しようとするが、先ほど当てられた雪玉で小袖の袖が濡れていたのに気が付く。与左衛門は小袖を脱ぎ替え、また雪の降る中を出かけていった。

そのあとに与左衛門の弟の中垣源蔵が、そぼろななりで兄を訪ねに塩山邸にあらわれる。見れば手には風呂敷に包んだ酒入りの徳利を持っていて、兄与左衛門への進物だという。塩山家の若党や下女は日頃の酒癖の悪さを知っているので、箒を逆さに立てようかなどと密かに話し合うが、さみや与之助が源蔵の応対をする。源蔵は与左衛門がいつ戻るかわからないと聞いて残念がる。さみは源蔵がいつも金の無心に塩山家を訪れるので、そのことかとそれとなく聞くといやそうではない、じつはこのたびさる大名家に仕官が決まり、明朝その国許へ出立するので暇乞いに来たのだという。それはめでたい事と、さみは酒肴の用意をさせる。

と見ると、近くに立てた屏風に小袖がかけてあるのに源蔵は気付き、これはなにかと尋ねる。与左衛門が着物を濡らしたので乾かすためにかけてあるのだと聞くと、源蔵はその小袖をかけた屏風の前に与之助を座らせて、これを兄与左衛門のかわりとして酒を酌み交わし、また義理の姉であるさみともこれが別れと盃を交わした。だがその中で思わず涙をこぼすありさまに、さみや与之助は不審がる。源蔵はそれをまぎらわそうと、間近にあった書見台の『元服曽我』の謡本を見て、曽我兄弟の話によそえて与之助に親には孝、主君には忠義を尽すよう諭し、やがて七つの鐘を聞くと別れを惜しみながらも徳利を置いて帰っていった。

与左衛門が帰ってきた。与左衛門は源蔵が来て徳利を置いていったこと、また新たに仕官して明日出立することを聞く。そして盃を交わすなかに涙をこぼしていたこと、また仕官したというにも拘らずみすぼらしいなりをしていたこと…さらに曽我兄弟を引き合いに出して与之助に教え諭したことを聞いて与左衛門は、「そんならもしや」と次のようにつぶやいた。「彼れが宅は本所じゃな」
解説

源蔵が塩山邸を訪れたこの日こそ、義士討ち入りの当日であった。源蔵は兄与左衛門に会えるのもこれで最後と覚悟を極め、討ち入りの前に自分の形見として徳利を携え訪ねに来たのである。不在であった与左衛門はその様子を聞いて、源蔵たちが亡君の敵討ちをするのに極まったのだと悟る。最後のせりふ「彼れが宅は本所じゃな」も本所の吉良邸(高師直)をほのめかしたものである。

『仮名手本硯高島』は全八幕の忠臣蔵物で、それまでに上演されていた『義臣伝読切講釈』や『弥作の鎌腹』など同じ忠臣蔵物の一部を集めた内容であったが、その中の最後の幕「塩山邸玄関の場」と「同座敷別れの場」のいわゆる『赤垣源蔵』はこの時新たに書き下ろされたものであった。ただし話の筋は天保のころに講釈師が語っていたものをもとにしている。なお「塩山邸玄関の場」と「同座敷別れの場」は廻り舞台で交互に見せて一幕としたものであるが、初演の時の絵本番付を見るとこのあとさらに返しとしてもう一幕あり、本懐を遂げて引き上げる途中の義士一行の前に与左衛門たちがあらわれ、義士姿の源蔵と会うという件りがあったようだが、この場の初演時の台本が伝わっていないので詳細は不明である。また『黙阿彌全集』所収の台本では役名が「赤垣源蔵」となっているが、初演当時の役割番付を見ると「中垣源蔵」となっているので、上のあらすじでもそれに従った。

この『仮名手本硯高島』は初演当時評判がよく、なかでもこの中垣源蔵の別れの場面が大いに受けたが、源蔵役の小團次が途中で病気になり休演してしまったという。この中垣(赤垣)源蔵はのちに五代目尾上菊五郎七代目市川團蔵六代目菊五郎も演じている。
初演の時の主な役割

中垣源蔵(赤垣源蔵)…
四代目市川小團次

塩山与左衛門…三代目関三十郎

与左衛門の妻さみ…四代目尾上菊五郎

与之助…関花助

参考文献

河竹繁俊編 『黙阿彌全集』(第三巻) 春陽堂、1924年

早稲田大学坪内博士記念演劇博物館編 『演劇百科大事典』(第2巻) 平凡社、1986年 ※『仮名手本硯高島』の項

秋山虔ほか編 『日本古典文学大辞典』(第1巻) 岩波書店、1988年 ※『仮名手本硯高島』の項

早稲田大学演劇博物館 デジタル・アーカイブ・コレクション※安政5年の『仮名手本硯高島』の番付の画像あり。

関連項目

忠臣蔵物

赤埴重賢


更新日時:2013年12月23日(月)00:36(日時は
取得日時:2014/12/20 07:04


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