仮名手本忠臣蔵
[Wikipedia|▼Menu]

『仮名手本忠臣蔵』(かなでほんちゅうしんぐら)とは、人形浄瑠璃および歌舞伎の演目のひとつ。寛延元年(1748年)8月、大坂竹本座にて初演[1]。全十一段、二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳の合作。通称『忠臣蔵』。赤穂事件を題材とするが、人物や時代背景を室町時代南北朝時代)に仮託した内容となっている。先行作品を含むこの作品以外の赤穂事件を題材とした作品については、忠臣蔵参照。大石内蔵助こと大石良雄家紋「二つ巴」。この紋のことは『仮名手本忠臣蔵』二段目にも記されている。大石家の紋については暁鐘成著の『雲錦随筆』に詳しい[3]。
はじめに

江戸城松の廊下吉良上野介に切りつけた浅野内匠頭は切腹、浅野家はお取り潰しとなり、その家臣大石内蔵助たちは吉良を主君内匠頭の仇とし、最後は四十七人で本所の吉良邸に討入り吉良を討ち、内匠頭の墓所泉岳寺へと引き揚げる。この元禄14年から15年末(1701 - 1703年)にかけて起った赤穂事件は、演劇をはじめとして講談浪曲などの音曲、文芸、絵画、さらには映画やテレビドラマなど、さまざまな分野の創作物に取り上げられている。ただしこれらには、史実とは異なる創作や脚色がある(赤穂事件の項参照)。赤穂事件を「忠臣蔵」と呼ぶことがあるが、この名称は『仮名手本忠臣蔵』を起りとする。

『仮名手本忠臣蔵』の「仮名手本」とは、赤穂四十七士をいろは四十七文字になぞらえたものである。『仮名手本忠臣蔵』の討入りの場面にあたる十一段目にも、四十七士の姿が「着たる羽織の合印(あひじるし)、いろはにほへとと立ちならぶ」とある。赤穂事件は『仮名手本忠臣蔵』の初演以前から浄瑠璃や歌舞伎で扱われているが、松島栄一は赤穂事件を扱った先行作に『忠臣いろは軍記』、『粧武者いろは合戦』、『忠臣いろは夜討』など「いろは」という言葉が題名に含まれるものがあり、いっぽう元文5年(1740年)の江戸市村座では、これも赤穂事件を題材とする『豊年永代蔵』が上演されており、元禄の豪商淀屋辰五郎の家の蔵を「いろは蔵」と称した例があったことを指摘している。こうした当時の背景から赤穂事件に「いろは」(仮名の手本)と「蔵」が結びつき、『仮名手本忠臣蔵』という題名ができたとし、また「赤穂事件の中心人物である大石の名の内蔵助というのも、なにほどかの関係をもっているであろう」とも述べている[2]

赤穂事件を芝居で扱ったと確認できる早い例としては、元禄16年の正月に江戸山村座で上演された『傾城阿佐間曽我』(けいせいあさまそが)の大詰がある。曽我の夜討ちにかこつけ赤穂浪士の討入りの趣向を見せたという[3]。また元禄16年春に京都で上演された『傾城三の車』(近松門左衛門作)にも討入りの趣向がうかがえる。その後、赤穂事件を扱ったものとして『碁盤太平記』(近松門左衛門作)、『鬼鹿毛無佐志鐙』(吾妻三八作)、『忠臣金短冊』(並木宗助ほか作)など多くの作が上演されたが、これらを受けて忠臣蔵物の集大成として書かれたのが本作であり、『菅原伝授手習鑑』、『義経千本桜』とならぶ義太夫浄瑠璃の三大傑作といわれる。かつて劇場が経営難に陥ったとき、上演すれば必ず大入り満員御礼となったことから、薬になぞらえて「芝居の独参湯」とも呼ばれていたほどである。それだけに上演回数もほかの演目と比べれば圧倒的に多く、現在に至るも頻繁に舞台に取り上げられている。

『仮名手本忠臣蔵』は全十一段の構成となっている義太夫浄瑠璃である。本来ならその全十一段の「あらすじ」をまずまとめて示し、その後に作品の内容について解説すべきであるが、上でも触れたように本作は現在に至るまで頻繁に上演されている人気演目であり、この全十一段は文楽と歌舞伎いずれも、おおむね現行演目として伝承されている。従って段によっては、ひとつの段だけでも解説すべきことは多い。そこで本作については段ごとに原作の浄瑠璃にもとづく「あらすじ」と、その段についての「解説」に分け以下作品を紹介する。
主な登場人物

左兵衛督直義(さひょうえのかみただよし) :
室町幕府将軍足利尊氏の弟。尊氏の代理として、京から鎌倉へと下向し鶴岡八幡宮に参詣する。

高武蔵守師直(こうのむさしのかみもろのう) : 大名。鎌倉に在住する尊氏の執事職。その性格は傲慢で、或る人妻に横恋慕する。その人妻とは…

桃井若狭之助安近(もものいわかさのすけやすちか) : 大名。桃井播磨守の弟。鎌倉に下向した直義の饗応役となる。性格は気短か。

塩冶判官高定(えんやはんがんたかさだ) : 伯耆国の大名。桃井若狭之助と同じく直義の饗応役となる。普段は冷静沈着な性格。

かほよ御前(かおよごぜん) : 塩冶判官の正室。もとは宮中に仕えた内侍。なお原作の浄瑠璃の本文表記では仮名書きで「かほよ」であるが、現行の文楽・歌舞伎では「顔世」の字を宛てている。

加古川本蔵行国(かこがわほんぞうゆきくに) : 桃井若狭之助の家の家老

戸無瀬(となせ) : 加古川本蔵の妻。後妻。

小浪(こなみ) : 加古川本蔵の娘。じつは本蔵の先妻の娘なので、戸無瀬とは実の親子ではない。大星由良助のせがれ力弥とはいいなづけの約束を交わしている。

鷺坂伴内(さぎさかばんない) : 師直の家来。おかるに横恋慕する。

おかる : かほよ御前に仕える腰元。早の勘平とは恋人どうしで、のちに夫婦となる。寺岡平右衛門の妹。

早の勘平重氏(はやのかんぺいしげうじ) : 塩冶家の譜代の家臣。

石堂右馬之丞(いしどううまのじょう) : 塩冶家に訪れた上使。

薬師寺次郎左衛門(やくしじじろうざえもん) : 同じく塩冶家に訪れた上使。師直と親しくしている人物。

原郷右衛門(はらごうえもん) : 塩冶家の諸士頭。

大星由良助義金(おおぼしゆらのすけよしかね) : 塩冶家の家老。国許にいる。

大星力弥(おおぼしりきや) : 由良助の息子。塩冶判官のそば近くに仕える。

斧九太夫(おのくだゆう) : 塩冶家の家老。

斧定九郎(おのさだくろう) : 斧九太夫の息子。

千崎弥五郎(せんざきやごろう) : 塩冶家家臣。

与市兵衛(よいちべえ) : 寺岡平右衛門とおかるの父親。山城国山崎に百姓をして暮らしている。

与市兵衛の女房 : 与市兵衛の妻、寺岡平右衛門とおかるの母。歌舞伎では「おかや」という名がついているが、原作の浄瑠璃ではこの人物に名は無い。

一文字屋(いちもんじや) : 京の祇園にある女郎屋の主人。

寺岡平右衛門(てらおかへいえもん) : 塩冶家に仕える足軽。おかるの兄。

矢間十太郎(やざまじゅうたろう) : 塩冶家家臣。ただし十段目と十一段目では名が「重太郎」と表記されている。

竹森喜多八(たけもりきたはち) : 塩冶家家臣。

お石(おいし) : 由良助の妻。

大鷲文吾(おおわしぶんご) : 塩冶家家臣。

天河屋義平(あまがわやぎへい) : 塩冶家に出入りしていた廻船問屋摂津国に店を持ち商売をしている。

園(その) : 義平の妻。原作の表記では仮名書きで「その」としているが、可読性を考慮して「園」とする。

大田了竹(おおたりょうちく) : 斧九太夫抱えの医者。園の父、義平の舅。

内容の大略

この項では、複数の段にわたるエピソードについて簡略に述べる。各エピソードの詳細及びここにあげないエピソードについては段ごとの「あらすじ」と「解説」を参照。

時は暦応元年(1338年)二月、塩冶判官高定は、足利尊氏の代参として鎌倉鶴岡八幡宮に参詣する足利直義の饗応役を命じられる。しかし塩冶判官は指南役の高武蔵守師直から謂れのない侮辱を受け、それに耐えかねた判官は殿中で師直に斬りつけるが加古川本蔵に抱き止められ、師直は軽傷で済む。判官は切腹を命じられ塩冶家は取り潰しとなる(大序、二段目、三段目、四段目)。判官切腹の際に高師直を討てとの遺命を受けた家老の大星由良助は、浪士となった塩冶家の侍たちとともに師直への復讐を誓い、それを計画し実行する(四段目、十段目、十一段目)。

この他に複数の段にわたるエピソードとして、早の勘平のエピソードと加古川本蔵のエピソードがある。

塩冶家譜代の侍である早の勘平は、刃傷事件の際に腰元のおかると逢引をしていてその場に立ち会えず、おかるの故郷の山崎に、おかるとともに駆落ちする(三段目)。おかるの父与市兵衛のもとで猟師として暮らす勘平は、山崎街道で猪と間違えて人を撃ち殺してしまう。勘平が撃ったのは、与市兵衛を殺して金を奪った斧定九郎であった。暗闇の中で勘平は自分が殺したのが定九郎であることに気付かず、定九郎のふところの金を奪う(五段目)。与市兵衛の遺体が見つかり、与市兵衛の女房や塩冶浪士の千崎弥五郎、原郷右衛門から与市兵衛を殺して金を奪ったと責められた勘平は切腹する(六段目)。一方、京都祇園の遊郭に売られたおかるは一力茶屋で由良助と出会い、おかるの兄寺岡平右衛門は仇討ちへの参加が認められる(七段目)。

加古川本蔵は塩冶判官とともに直義の饗応役を命じられた桃井若狭之助の家老である。本蔵の娘小浪は由良助の息子力弥とは刃傷事件の前に婚約していた。小浪は力弥に嫁入りするため、本蔵の妻戸無瀬とともに東海道を歩いて力弥のいる京の山科に向かう(八段目)。小浪と戸無瀬のあとを追って山科に現れた本蔵は、判官を抱き止めたことで師直は軽傷にとどまり、判官は切腹塩冶家はお取り潰しになったことを後悔しており、わざと力弥に討たれて師直館の絵図面を由良助に渡す(九段目)。
大序・鶴岡の饗応

『仮名手本忠臣蔵』は、以下の文章を以って始まる。

嘉肴(かかう)有りといへども食せざれば其の味はひをしらずとは。国治まってよき武士の忠も武勇もかくるゝに。たとへば星の昼見へず夜は乱れて顕はるゝ。例(ためし)を爰(ここ)に仮名書きの太平の代の。政(まつりごと)…

どんなにおいしいといわれるご馳走でも、実際に口にしなければそのおいしさはわからない。平和な世の中では立派な武士の忠義も武勇もこれと同じで、それらは話に聞くだけで実際に目にすることが無くなってしまうのである。だがそんな世の中でも、立派な忠義の武士は必ずいる。それはたとえば、星は昼には見えないが夜になれば空にたくさん現われるのと同じように、普段は見えなくても忠義の武士は、あるべきところには確かに存在するのだ。そんな武士たちの話をわかり易いように仮名書きにして、これから説明することにしよう…という大意で、要するにこれから「忠」も「武勇」も備わった「よき武士」、すなわち大名塩冶家に仕えた者たち(赤穂浪士)のことについて語ろうということである。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:169 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef