以仁王
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以仁王
以仁王像(蜷川親胤模、東京国立博物館蔵)
続柄後白河天皇第三皇子

身位臣籍降下後白河源氏
出生仁平元年(1151年
山城国
死去治承4年5月26日1180年6月20日[注 1]
山城国相楽郡南山城加幡河原
配偶者妻:八条院女房
 妻:藤原忠成の娘
 妻:八条院三位局(高階盛章の娘)
 妻:殷富門院治部卿局
子女第一王子:北陸宮
第二王子:道尊
第三王子:真性
第四王子:道性(安院宮僧正)
第五王子:仁誉
王女:三条宮姫宮
王女:姫宮
父親後白河天皇(第77代天皇
母親実母:藤原成子藤原季成女)
猶母ワ子内親王
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以仁王(もちひとおう)は、平安時代末期の皇族後白河天皇の第三皇子。「以仁王の令旨」を出して源氏平氏打倒の挙兵を促した事で知られる。邸宅が三条高倉にあったことから、三条宮、高倉宮と称された。
生涯
前史

後白河天皇の第三皇子だが、『平家物語』では同母兄の守覚法親王が仏門に入ったため第二皇子とされている。同母姉に歌人として名高い式子内親王がいる。母親は藤原季成の娘・成子

幼くして天台座主最雲法親王の弟子となるが、応保2年(1162年)に最雲が亡くなり還俗永万元年(1165年)に人目を忍んで近衛河原の大宮御所で元服したという。その後、八条院ワ子内親王猶子となる[注 2]。幼少から英才の誉れが高く、学問や詩歌、特に書や笛に秀でていた。母の実家は閑院流藤原氏で家柄も良く、皇位継承において有力候補であったが、異母弟である憲仁親王(のちの高倉天皇)の生母であり権勢を誇った平滋子(建春門院)の妨害に遭って阻止されたという(『平家物語』)。ただし、これは「因果応報」を主題とする『平家物語』の方便であって、必ずしも史実に即した解釈とはいえない[注 3]

特に仁安元年(1166年)、母方の伯父である藤原公光が権中納言・左衛門督を解官されて失脚したことで、以仁王の皇位継承の可能性は消滅し、親王宣下も受けられなかった[注 4]
治承三年の政変

治承3年(1179年)11月、平清盛はクーデターを起こし後白河法皇を幽閉、関白・松殿基房を追放するが(治承三年の政変)、以仁王も長年知行してきた城興寺領を没収された[注 5]。治承4年(1180年)4月、ついに平氏討伐を決意した以仁王は、源頼政の勧めに従って、平氏追討の令旨を全国に雌伏する源氏に発し、平氏打倒の挙兵・武装蜂起を促した。
以仁王の挙兵「以仁王の挙兵」も参照

また自らも「最勝親王」と称して挙兵を試みたが、準備が整わないうちに計画が平氏方に漏れた。5月15日、平氏の圧力による勅命と院宣で以仁王は皇族籍を剥奪され、源姓を下賜され「源以光」となり、土佐国への配流が決まった。その日の夜、検非違使の土岐光長源兼綱(頼政の子)が以仁王の館を襲撃したが、兼綱は頼政にこの動きを急報しており、以仁王はすでに物詣を装って脱出していた。


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