仙石氏
無の字
永楽銭
本姓藤原北家利仁流後藤氏?
称・清和源氏土岐氏流
種別武家
華族(子爵)
出身地美濃国山県郡中村千石谷
仙石氏(せんごくし)は、武家・華族だった日本の氏族のひとつ。美濃国出身の仙石秀久が豊臣秀吉のもとで大名に出世し、江戸時代にははじめ信濃国上田藩主家、のち但馬国出石藩主家、維新後には華族の子爵家となった[2]
歴史
戦国時代・安土桃山時代を祖とし、千石氏とも呼ばれた。仙石基秀の代に甥である仙石久重が娘婿として家督を引き継いだが、久重は母方が清和源氏流摂津源氏頼光流土岐氏(美濃源氏)一族の娘であり、以降は土岐氏一門と称した。久重の孫となる仙石久盛の代までは土岐氏およびこれを滅ぼした斎藤氏に仕える豪族であった。
仙石氏の中興の祖である仙石秀久(久盛の子)は、はじめ美濃斎藤氏に仕えたが、斎藤氏が織田信長に滅ぼされると織田氏に仕官した。信長配下の羽柴秀吉に仕えて立身を重ね、1583年に淡路国5万石を領有し、1585年には四国征伐で軍功を上げて讃岐国高松10万石を与えられるまでになった。1586年、九州征伐の前哨戦である戸次川の戦いに敗れて高野山に追放されるも、1590年の小田原征伐の功績で秀吉より許しを受けて信濃国小諸5万石の大名として復帰、伏見城築城の功績でさらに5万7000石に加増された。 1600年の関ヶ原の戦いでは東軍に付き、大阪の陣を経て信濃国小諸藩を立藩した。秀久の代に仙石氏は徳川氏の信頼を得て、小諸藩は外様ながら願譜代として扱われた。また七男の仙石久隆は幕府の旗本に取り立てられたが、この旗本仙石家は大目付となった仙石久尚によって知られている。庶流に旗本の仙石因幡守家、加賀藩に仕えた仙石内匠家がある。 江戸時代の仙石氏の所領は信濃国小諸藩から同国上田藩に転封され、次いで但馬国出石藩に移封された。仙石久利の代の天保年間には藩財政窮乏と後継ぎをめぐる対立で仙石騒動という御家騒動が起き、取り潰しは免れたものの騒動の中心人物の一門家老仙石左京が獄門に処され、5万8千石から2万8000石への減封となった[3]。 外様 2万8000石 (1706年 - 1871年) 戊辰戦争で久利は官軍に付き、豊岡藩主京極高厚とともに生野警衛を政府から命ぜられていた[4]。その後、明治2年(1869年)の版籍奉還で出石藩知事に転じるとともに華族に列した。明治3年(1870年)に仙石政固が最後の藩知事に就任し、明治4年(1871年)の廃藩置県まで務めた[5]。 明治17年(1884年)7月の華族令施行により政固は旧小藩知事として子爵に叙せられた[6]。 2代子爵仙石政敬は政府官僚として賞勲局総裁や宗秩寮総裁を歴任し、また貴族院の子爵議員に当選して務めた[7]。 3代子爵仙石久英の代の昭和前期に仙石子爵家の邸宅は東京市麻布区笄町にあった[8]。久英の次代の政恭で仙石家は断絶している。 藤原利仁
江戸時代
但馬出石藩仙石家
仙石政明(まさあきら)〔従五位下、越前守〕
仙石政房(まさふさ)〔従五位下、信濃守 寺社奉行〕
仙石政辰(まさとき)〔従五位下、越前守〕
仙石久行(ひさゆき)〔従五位下、刑部少輔〕
仙石久道(ひさみち)〔従五位下、越前守〕
仙石政美(まさよし)〔従五位下、越前守〕
仙石久利(ひさとし)〔従五位下、越前守〕 仙石騒動により3万石
仙石政固(まさかた)〔従五位下、越前守。従二位、子爵〕
明治以降
歴代
仙石秀久
仙石忠政
仙石政俊
仙石政明
仙石政房
仙石政辰
仙石久行
仙石久道
仙石政美
仙石久利
仙石政固(子爵)
仙石政敬(子爵)
仙石久英(子爵)
仙石政恭
系図 仙石氏系図
太字は当主、実線は実子、点線は養子。
(5代略)
後藤則明
(10代略)
千石久重
道重土岐光定
秀重船木頼重
(略)
秀豊頼乗
基秀
女 仙石久重
久春
久盛
久勝(のち土佐藩士)秀利秀久
[仙石左京(式部)家]
久忠仙石秀範忠政[旗本4千石]
久隆
久治政俊政則[旗本2千7百石]
政勝[旗本6千石]
久邦
政治政忠忠俊政春政因[旗本5千石]