仙巌園
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仙巌園
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仙巌園の庭園と桜島
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分類日本庭園
所在地 日本鹿児島県鹿児島市
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯31度37分2秒 東経130度34分37秒 / 北緯31.61722度 東経130.57694度 / 31.61722; 130.57694座標: 北緯31度37分2秒 東経130度34分37秒 / 北緯31.61722度 東経130.57694度 / 31.61722; 130.57694
面積総面積 5.0ヘクタール
開園一般公開は1949年(昭和24年)8月21日
運営者島津興業
現況年中開放(有料)
9:00-17:00
3月第1日曜日は休園
事務所島津興業 仙巌園・尚古集成館
事務所所在地鹿児島県鹿児島市吉野町9700-1
公式サイト名勝 仙巌園
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仙巌園(せんがんえん)は、鹿児島県鹿児島市吉野町にある薩摩藩主島津氏の別邸・大名庭園[1]。別名は磯庭園(いそていえん)[2]。所有者は島津興業[3]

万治年間に島津氏第19代当主・島津光久によって磯に別邸として建設された[4]錦江湾を隔てて桜島借景とする庭園となっており[5]、「仙巌園附花倉御仮屋庭園」として国の名勝に指定されている[6][3]。また園内の反射炉世界文化遺産明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産となっている[7]
歴史
江戸時代

江戸時代万治年間(1658年?1661年)に第19代当主・島津光久によって磯に別邸として建設され[4]、その別邸は「仙巌園」と名付けられた[8]

寛文12年(1672年)には居間・化粧の間・大書院など13の部屋を有する一亭が増築され、この建物は「喜鶴亭」と名付けられた[9]。また元禄15年(1702年)頃に曲水の庭が造成された[1]嘉永元年(1848年)に島津斉興によって鹿児島湾を2ヘクタール程埋立て庭園が整備された[9][10]

薩摩藩によって江戸時代後期に編纂された地誌である『三国名勝図会』には、仙巌園周辺を指す大磯が挿絵入りで収録されており、仙巌園についても以下のように記述されている。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}

大磯 吉野村の海邊なり、一名仙巖洞、縁海の崖岸に道を設く、 淨國公の時、斷巖を削り、巉壁を穿ち?翳を焚き、草莽を翦り、上下曲直、僅にこの一路を開き、始て人迹通すべし、洞口先づ行て、良英寺を得、是より左に折て、永福寺、及び潮音院あり、猶、高低迂行して、山神、櫻谷等に至り、又右に折て、天滿宮、龍洞院、皆相列る、既にして山下川流れ?橋を架す、橋側に碑を建つ、其文に出自仙巖別館南門至兩岐路口、五町二十五間、至於府城東門、西踰鳥越故道則二十七町四十四間、南循縁海新道則三十二町三十六間と記す、即仙巖園あり、萬治年中、 寛陽公是を營み、山に靠り、海に臨て、別館を搆へ、仙巖喜鶴亭と名づく、公こゝに遊觀し、翰墨の間に樂み給へるに、雙鶴??として碧空に横はり、瞭唳として青霄に響き、下りて館廷の?に集る、いはゆる芝田に戯れ、瑤池に飲むの象の如し、日已に西するに及て、悠々然として去る、故に亭の名に命ず、實に是寛文十二年癸丑、正月九日なり、其地の勝たる、翠嶺後に圍み、裏海前に閘き、南開聞嶽より、海を隔て東福山に至り、凡そ三十里の景色、一望に入り、連山逶?、潮水湛然、其山其水、清麗澄媚にして、櫻島海心に特立し、浮ぶが如く漂ふが若し、怪巖磯磧に錯綜亂峙し、或は蹲虎と疑ひ、或は奮獅に似たり、遠近巨細、並出互見、陰陽晦明四時奇變し、千形万状?述すべからず、昔人畫山水の歌に、不出門庭三十五歩、觀盡江山千萬重、其懷を騁せ性を養ふ、亦何ぞ別にこれを求めんや、且此仙洞、櫻樹甚だ多くして、春は瓊筵を花に開き、或は輕舟に棹すもあり、秋は羽觴を月に飛すなど、樂みは此地に盡すと云べし、其勝かくの如くなるを以て、國中の士庶、往々別荘を營み、臺?園池、東西に相望み、宛も壺中別に天地あるが如し、一たび是に遊ぶもの、塵寰頓に脱し、自ら飛仙昇天の思ひあり、—三国名勝図会巻之二大磯を描いた三国名勝図会の挿絵

嘉永5年(1852年)の冬には集成館事業の一環として反射炉が建設された[11]。翌年の嘉永6年(1853年)には大型反射炉が建設され、以後集成館事業は拡張されて一帯は工場地帯となった[11]。また、島津斉彬によってガス灯の研究が行われ、安政4年(1857年)には庭園内の石灯籠にガス管が繋がれ点灯した[12][13]。これは日本で初めてのガス灯の点灯であった[14]
廃藩置県後1872年頃の磯付近の写真。奥に庭園が見える。

明治4年廃藩置県後、明治5年1872年)には薩摩藩主島津忠義は居城であった鹿児島城から仙巌園に転居し[1][10][12]、増築を行いさらに入口を錫門から本門まで拡張した[12]。その後、島津忠重東京へ移住し以後は島津氏の別邸となった[12]1891年(明治24年)5月6日には日本を訪問していたロシア帝国皇太子ニコライが3泊滞在した[15]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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