仙塩
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仙塩(せんえん)とは、宮城県仙台市塩竈市から1字ずつ採って名付けられた地域名。戦前と戦後に、この地域の工業地帯化を図る仙塩地方開発総合計画、仙塩特定地域総合開発計画が立案され、それに関連して一帯の広域合併を進める仙塩合併が議論された。また、宮城県は仙台市や塩竈市を含む広範囲に仙塩広域都市計画を設定している。
仙塩地方開発総合計画

1940年(昭和15年)、仙台市から宮城郡塩竈町(当時)にかけての地域を工業地帯として開発する「仙塩地方開発総合計画」が立案された。この計画の立案者は内務省仙台土木出張所の所長だった金森誠之で、この計画は「金森構想」とも呼ばれた。この頃は日中戦争のさなかであり、地方における工業力の拡充が国の政策として行われていた時期でもあった。金森の仙塩地方開発総合計画は、仙塩地区を大規模な工業集積地帯として、さらには仙塩地区が東北地方振興の拠点となることを考えたものだった。仙塩地方開発総合計画は、仙台から塩竃にかけての約700万坪を工業用地として想定し、同時に住宅や商店、広場の建設も想定して、将来的に仙塩地区には120万人の人口が集積すると見込んだ。また、塩竈港における1万トン級船舶が接岸できる岸壁の整備、名取川の改修、工業用水確保のために釜房ダムの建設、貞山運河の整備、その他、道路や鉄道、港湾の整備がこの計画に盛り込まれた[1][2]。当時の仙台市長の渋谷徳三郎は、この計画の実現に熱意を燃やしたが[3]、時局の悪化により、仙塩地方開発総合計画は実現しなかった[1]。しかし、この計画は戦後の「仙塩特定地域総合開発計画」の下地になったと言われる[1]
仙塩特定地域総合開発計画

1950年(昭和25年)、宮城県は「仙塩特定地域計画書」を策定した。この計画書は、宮城県内の産業振興や経済的発展のためには工業の振興を推し進めることが必要であると指摘していた。そして、その拠点として、仙塩地区が宮城県のみならず、東北地方の中においても適地であると記した。具体的には、当時の仙台市、塩竈市、松島町利府村多賀城村七ヶ浜村野蒜村宮戸村が「仙塩特定地域」とされた。この計画が、1951年(昭和26年)に「仙塩特定地域総合開発計画」となった。第一期計画は、この年から1953年(昭和28年)までとされ、様々な分野の工業集積によって、工業生産額の3倍増、2万4000人分の雇用創出が目標とされた。この他にも、塩釜港の荷役能力増加(1年間で270万トン)、100トンバージを運航するために貞山運河の改修、東北本線の新線への切り替え、複線化、操車場や臨海鉄道の整備、街路整備、住区整備、上水源開発(工業用水1日11万トン、都市上水1日9万トン)、送電設備整備などの開発目標が設定され、水産資源や農産資源、観光資源にも目標が及んだ[4][5]

仙塩特定地域総合開発計画の策定は、1950年(昭和25年)の国土総合開発法の成立を契機としていた。しかし、1951年(昭和26年)に国が全国19箇所を特定地域として指定した際、仙塩地区はこれに含まれなかった。国の特定地域開発はアメリカのテネシー川流域開発公社を参考にしていた。このため、河川流域が特定地域に指定され、河川流域でない仙塩地区は指定されなかったのである。それでもあえて宮城県が、国の指定の獲得を目指したのは、朝鮮戦争に関連する特需に対応するためで、また、戦前の「仙塩地方開発総合計画」があったことから仙塩地域の開発計画を策定しやすかった、とされる[4]。この後、1957年(昭和32年)に仙塩は国から特定地域の指定を受けた[6]

仙台市は、宮城県の仙塩特定地域総合開発計画にあわせて、1951年(昭和26年)に「仙台市工場設置推奨条例」を制定し、工業都市化を目指した[7]。その一方で、仙台市はダム建設において宮城県と対立した。宮城県は仙塩特定地域総合開発計画にあわせて、大倉ダムの建設を計画していた。大倉ダムの設置により、仙台市のみならず塩竈市や多賀城町(当時)を含む広範囲に、10万トンの生活用水と10万トンの工業用水が供給される計画だった。仙台市も大倉川へのダムの設置の必要性は同意していたが、生活用水確保の観点から宮城県の案より上流に定義ダムを建設するべきだという認識を持っていた。1954年(昭和29年)に建設省が宮城県の案を支持したが、それでも仙台市は自らの案を譲らずに両者の対立は深刻化した。1955年(昭和30年)は水不足の年で、解決策を見いだせない宮城県と仙台市に非難の声が上がり、この年の12月に仙台市は自らの案を撤回した。大倉ダムの建設は1958年(昭和33年)に始まり、1961年(昭和36年)に完成した[8]

仙台市や塩竈市を含めて、仙台湾沿岸地域[注釈 1]は1964年(昭和39年)に国から新産業都市に指定された[9]。こうした工業化の成果について仙台市の事例を挙げると、1955年(昭和30年)から1970年(昭和45年)にかけて、事業所数、就業者数は約2倍、製品出荷額は約10倍に増えた。しかし、仙台市の人口に対する製造業の従事者の割合は、日本の主要都市と比較してかなり低く、仙台市の工業化はそれほど進まなかった[10]
仙塩合併1950年昭和25年)
 ■ ― 市
 ■ ― 町
 ■ ― 村
太線は市郡界

仙台と塩竈の合併に関する議論は戦前からあった。議論の内容としては、当時の日本の大都市はいずれも港湾設備を保有しているから、仙台市と港湾設備のある塩竈町(当時)の合併によって一大都市を建設することが肝要である、というものだった。仙台市は塩竈町、岩切村、多賀城村、高砂村、七ヶ浜村を合併の対象と見ていた[11][注釈 2]。しかし、塩竈町は自らの町の基盤固めを優先して合併には消極的姿勢を取り、この時の合併議論は流れた[12]


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