仙台市立仙台高等学校
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯38度16分54.6秒 東経140度50分1.5秒 / 北緯38.281833度 東経140.833750度 / 38.281833; 140.833750
仙台市立仙台高等学校(せんだいしりつ せんだいこうとうがっこう)は、宮城県仙台市青葉区国見六丁目にある仙台市立の高等学校である。学科は普通科のみ、全日制課程のみ。
仙台圏での通称は、「仙台高校」(せんだいこうこう)、もしくは「仙高」(せんたか)。 1940年(昭和15年)に、それまでは存在しなかった仙台市立の旧制中学校として創設された仙台市立仙台中学校が前身である。戦後の学制改革により、1948年(昭和23年)に仙台市立の新制高等学校に移行して仙台高等学校(2009年までの正式校名)となった。 学制改革以前は旧制中学校であり、当時の法制度により必然的に男子校であった。学制改革によって新制高校に移行した後も、引き続き男子校であった。 1975年(昭和50年)に国見地区の現校地に新築した校舎に移転したのと同時に、それまでの男子校から男女共学校に移行し、現在に至っている[1]。 2009年(平成21年)に正式校名が変更され、仙台市立仙台高等学校となった[2]。 校地は市街地と太平洋を一望できる国見の丘陵地にあり[3]、望洋会館という生徒食堂や宿泊設備を備えた建物がある[4]。 仙台高校の前身である仙台市立仙台中学校の設立は1940年(昭和15年)である。この頃は、日本は日中戦争のさなかだったが、進学率が高まっていた時期でもあった。当時の仙台には、宮城県仙台第一中学校、宮城県仙台第二中学校、東北学院(私立)、東北中学校(私立)、仙台育英中学校(私立)があり、ここに市内だけでなく市外からも多数が進学していた。進学希望者の増大による入学難が予想されたことから、1939年(昭和14年)に仙台市会と宮城県会、両方で新中学校の設立が議論された。しかし、市会では市立中学校設立の質問に対して、市長の渋谷徳三郎が財政上の理由から否定的な答弁をした。一方、宮城県は県立仙台第三中学校の設立を目指したが、これは敷地や運営費について仙台市にもある程度の負担を求める計画だった。仙台市はこれに応じず、第三中学校の設立は見送られた。1940年(昭和15年)になり、宮城県は仙台第一中学校と仙台第二中学校の定員拡大を計画したが、やはり仙台市にも負担を求めた。2月の仙台市会の協議会で、この負担についての賛意はなく、それとは別に新中学校設立が可決された[5]。 協議会が新中学校設立の可決をしたのが2月8日である。その後、仙台市の夜間中学だった図南中学校の校長伊藤浩二郎や職員によって新中学校設立の書類が準備され、また、市議の斡旋で川内仲ノ町(北緯38度15分35.8秒 東経140度51分37.2秒 / 北緯38.259944度 東経140.860333度 / 38.259944; 140.860333 (仲ノ町時代の校地) その後の開校準備は、伊藤などの図南中学職員を中心に行われた。川内仲ノ町の校舎が建設されるまでは、荒町小学校と、海軍将校斎藤七五郎の生家跡に造られた斎藤記念館が仮校舎として扱われることになり、3月11日に斎藤記念館で開校式が挙げられた。当初、第一回生の予定定員は100名だった。しかし、212名の出願があり、100名以上の不合格が発生することを憂慮した伊藤が、定員を150名に増やすよう渋谷に要請して、これが市会、文部省に認められた。3月の考査と試問を経て、158名が合格とされた[7]。 1940年(昭和15年)4月10日、荒町小学校の講堂で仙台市立仙台中学校の初入学式が行われた。荒町小学校の1部屋と斎藤記念館の2部屋が市立中学の教室となった。校長や事務員を含めて、12名の教職員がいた。そのうち4名は東京高等師範学校を出たばかりの教師だった[8]。校長の人選には紆余曲折があり、様々な候補者が挙げられたが、最終的には開校後の6月に千葉県出身の藤江喜久雄が初代校長の任に就いた[9]。 学校敷地として決まっていた川内仲ノ町には50戸ほどの住宅があり、買収費用や立ち退きについて一悶着があったが、これは最終的には解決した。開校した年の夏休みに生徒職員がここの整地作業に従事し、9月に建設工事が始まって、12月には上棟式が行われた。そして、1941年(昭和16年)6月21日に真新しい校舎が落成した。この校舎は延坪面積約452坪の二階建て木造校舎で、この他にも平屋の柔道場があった。敷地買収費用は約13万1000円で、工事費用は約10万5000円だった。これは第一期工事であり、教室棟や講堂、体操場、剣道場を増設する第二期、第三期工事も計画されていた。しかし、同年12月には太平洋戦争が開戦し、これらの増設工事は日の目を見なかった[10]。 戦中においては、1943年(昭和18年)頃までは比較的、通常通りに授業が行われていたのが、1944年(昭和19年)年頃からは戦争の影響がはっきりと表れるようになった。学徒勤労動員が仙台市立中学校に割り振られ、5年生は原町苦竹の東京第一陸軍造兵廠仙台製造所で、4年生は神奈川県川崎市の東芝特殊合金工具製作所で労務に従事し、3年生以下は授業の合間に鉄道の機関区や日本通運、近郊の農家などへ動員された。1944年は第一回生が最高学年である5年生に進級した年であり、翌1945年(昭和20年)3月に第一回生の卒業式が行われたが、戦争の影響で第二回生である4年生も同時に卒業することになり、しかも4年生の卒業式の方が早く、動員先の川崎で行われた。この約半月後に第一回生の卒業式が仙台で行われたが、戦中ということでこの式は非常に質素なものだったという[11]。 同年7月10日深夜にはアメリカ軍によって仙台空襲が行われ、仙台の市街地は灰燼と化し、仙台市立中学の校舎も焼失した。当時の宿直日誌によれば午前1時に焼夷弾が校舎を直撃したとある。被害は人命にもおよび、6名の生徒と卒業したばかりの2名が犠牲になった[12]。この後、国民義勇隊たる「仙台中学校学徒隊」が結成され、一部の生徒は戦闘部隊とされた。学校の事務所は片平国民学校を経て、学校発足の地である斎藤記念館に置かれた。8月15日に終戦となり、17日に授業が再開し、動員が解除されて全ての生徒が揃ったのは25日だった[13]。短い夏休みを挟み、9月11日からは荒町国民学校と南材木町国民学校の一角を間借りする形で授業が再開したが、翌年に南材木町国民学校が火事に見舞われ、全生徒が荒町国民学校で二部形式の授業を受けることになった[14]。 戦後、空襲で焼き払われた市街地を対象に戦災復興のための区画整理事業が行われることになり、その計画の中で川内仲ノ町の校地は公園用地と決められたために、仙台中学校は事業区域外へ移転することになった[15]。終戦の年の9月に、台原の広大な射撃場跡地が仙台市立中学の校地として早々に決定した。しかし、1946年(昭和21年)に進駐軍がここを接収したために、この計画は実現できなくなった。この後、移転候補地はいくつかあったがいずれも決まらなかった。同年10月に北八番丁(柏木)の土地[注釈 2](北緯38度16分34.9秒 東経140度51分22.2秒 / 北緯38.276361度 東経140.856167度 / 38.276361; 140.856167 (柏木時代の校地)
概要
沿革
開校まで
仙台市立仙台中学校