仙台藩
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仙台藩(せんだいはん)は、江戸時代から明治初期にかけて陸奥国仙台城藩庁を置き、外様大名伊達本家が治めた藩である。伊達藩(だてはん)と呼ばれることもある。表高は62万であり、所領として現在の宮城県全域、岩手県南部および福島県新地町計約60万石を一円知行で治め、現在の茨城県[1]および滋賀県に合計約2万石の飛び地があったが、戊辰戦争後に28万石に減封となり、その石高で廃藩置県を迎えた[2]全ての座標を示した地図 - OSM
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概要

外様大名の伊達政宗が樹立し、以降は明治の廃藩置県まで代々伊達本家が統治した。伊達本家は、大広間詰国持大名。代々、徳川将軍家より松平を許され[3]、歴代藩主のほぼ全員に陸奥守の官位が与えられ、世嗣の殿上元服賜諱(偏諱の授与)があった。

表高62万0056石5斗4升4合で、諸藩のうちで第3位[注 1]実高は支藩の一関藩を含め、18世紀初頭には100万石を超えた。地方知行によって多数の陪臣を抱え、直属家臣約7000人(江戸中期以降には約1万人)、陪臣をあわせて2万数千から3万の兵力(江戸中期以降は約3万5000人)を擁した。領内の産出米は大消費地・江戸の食料を支え、干しアワビフカヒレ長崎俵物として外貨を稼いだ。
歴史
仙台開府まで伊達政宗の肖像画

仙台藩が成立する以前の16世紀の中ごろ、現在の宮城県北部から岩手県南部にかけての領域は大崎家葛西家が治めていた。また、宮城県中部は留守家国分家黒川家の領土だった。ここに南側から、信達地方や置賜地方を本拠とする伊達家が勢力を伸ばしており、これらの諸勢力は伊達家の影響を受けるようになっていた[4]

1590年天正18年)、天下統一を目指す豊臣秀吉小田原後北条家を降した後、宇都宮奥州仕置を行った。伊達政宗はこの前年に会津蘆名家を討ち滅ぼして広大な領土を実現していたが、奥州仕置により旧領のみが伊達家の所領として認められ、会津領は没収された。また、この仕置きによって、大崎家や葛西家、留守家、黒川家は改易された。大崎家および葛西家の旧領12郡には木村吉清が封じられたが、まもなく葛西大崎一揆が起こった。この一揆は政宗と蒲生氏郷によって鎮圧され、一揆の責任を問われた領主の吉清は所領を取り上げられた。この一揆には政宗の関与が疑われ、秀吉は伊達家の本拠だった信達地方や置賜地方を取り上げ、旧大崎、葛西領全郡と、刈田郡を除いておおよそ現在の宮城県中南部に当たる部分を政宗の領土とする仕置きを行った[4]

秀吉が死ぬと、政宗は徳川家康に接近した。1600年慶長5年)の家康による会津征伐では、政宗は家康から上杉景勝に対する備えを求められた。この時、家康は政宗に対して、秀吉に没収された伊達郡置賜郡などの旧領を回復し、所領を100万石にまで加増するという約束をした(いわゆる「百万石のお墨付き」)[4]。政宗は上杉領へ攻め込み白石城の戦いで上杉勢を破り、上杉勢に攻め込まれた山形最上義光へ援軍を送ったが、援軍には合戦を傍観させた。一方、政宗は同じ徳川方である南部利直の領地で、和賀忠親を支援して岩崎一揆を起こさせた。関ヶ原の戦いの後の論功行賞で、家康が政宗に認めた新たな領地は刈田郡のみだった[4]仙台城の大手門隅櫓。仙台空襲で焼失し、後に再建されたもの。

露骨な野心を家康から警戒された政宗は、戦勝後に有力大名の中で最後まで帰国を許されず、江戸の天下普請に動員されるなど、2年間を領国外で過ごした。この間、1601年(慶長6年)、政宗は国分家の居城であった千代城を修築(実質は新築)、「仙台城」と改称し、それまでの居城だった岩出山城からここに移った。同時に城下町も建設し、政宗を初代藩主とする仙台藩(62万石)が成立した。1611年(慶長16年)に仙台を訪れたスペイン領メキシコの対日特派大使セバスティアン・ビスカイノは、仙台城から見降ろした仙台の城下町の様子を「江戸と同じくらいの大きさだが、建物はもっと立派」と報告している。この時期の仙台城下町人口は5万人と推定されている。[5]
慶長遣欧使節団の派遣欧州における報告書に描かれた支倉常長の肖像。Faxicuraとの記載がある

政宗は仙台藩とスペインとの通商(太平洋貿易)を企図し、1613年(慶長18年)、仙台領内で西洋帆船(黒船)、サン・ファン・バウティスタ号を建造した。当時、フェリペ3世国王とするスペイン帝国は、世界最大の植民地帝国であった。政宗は家臣の支倉常長を外交使節に任命すると、常長を中心とする一行180余人をノビスパニア(メキシコ)、イスパニア(スペイン)、およびローマへ派遣した(慶長遣欧使節)。当時は、西日本の藩を中心に東南アジア地域との貿易(南蛮貿易)が盛んであったが、政宗は仙台藩自らが外国へ出向いて、ヨーロッパと貿易をすることで大きな利潤を得ようとした。政宗が使節を送った目的として、スペインとの軍事同盟、さらにはそれを利用しての倒幕があったとの説もある[6]。慶長遣欧使節団の派遣は、対スペイン貿易を志向する徳川幕府の承認、すなわち“外交権”を得たものであった[7]。なお、支倉常長らは、初めて太平洋大西洋の横断に成功した日本人でもある。

しかし翌年、幕府は禁教令を出し、キリシタンおよび宣教師の弾圧を始める。この情報がヨーロッパにも伝わり、仙台藩によるスペインとの外交交渉は失敗に終わった[注 2]

幕末には藩士玉虫左太夫日米修好通商条約の使節団に加わっている[11]
危機と中興伊達騒動が起きた酒井家上屋敷跡
千代田区丸の内

政宗は1614年(慶長19年)からの大坂の陣にも参陣し、その後は、北上川の河川改修などの治水事業を行った。政宗の死後、跡を継いだ2代藩主・忠宗は、内政を充実させると共に、正室に2代将軍徳川秀忠の養女である振姫池田輝政の娘で家康の孫娘)を迎えるなど、将軍家との関係を深め、幕府へ従順な態度を示して警戒を解こうと努力した。しかし、振姫との間の世子・光宗が夭折すると、櫛笥隆致の娘・貝姫との間に生まれた綱宗が後継者になる。忠宗が没すると、伊達騒動と呼ばれるお家騒動が起きる。貝姫の姉・隆子後西天皇の生母で、綱宗は天皇の従兄弟になり、幕府に警戒されたと言われ、綱宗は隠居させられ、幼君・亀千代が立てられた。亀千代は成人し、4代藩主・綱村となったが、綱村は浪費によって多額の借金を生み出し、藩財政を致命的な状態に陥れたため、重臣らと対立して隠居に追い込まれた。

5代藩主・吉村は藩財政の再建に取り組み、買米制を利用して利益を上げる一方、幕府に対し仙台藩内のを利用することを条件に鋳銭を願い出て許可を得た。石巻鋳銭場(現代の石巻駅前、地名に残る)を設置し、寛永通宝を鋳造した。この他に「仙台平」と呼ばれる絹織物の生産、鉱山開発、馬産の奨励を行った。これらの財政再建策の成功により、吉村は中興の祖と称えられる。

しかし、6代藩主・宗村の代に発生した宝暦の飢饉により買米バブルが崩壊すると、再び藩財政は破綻する。7代藩主・重村の失政に天明の大飢饉があいまって、借金は増大する一方であった。19世紀初頭の一時期、家老中村景貞の施策により小康状態を得たが、その後は天保の大飢饉や海岸防備への対策費用捻出により、財政難は壊滅的状況へと逆戻りしていった。

1836年天保6年)の飢饉への対応は、藩による現物支給や資金調達の限界を超えたため、各地域に任されることとなった。白石の片倉家の例では、秋田の佐竹北家に3000俵の買い入れを申し入れるなど、過去に交わされた僅かな縁を頼ったやりくりが行われた。1837年(天保7年)に入ると城下でも扶持米の支給が滞った下級藩士が騒動を起こす、強盗や放火が多発するなど不穏な状況となった。同年2月には新発田藩豪商市島次郎八家から確保した8000俵が海路により到着して救済の目途が立ったが、いずれにせよ多くの餓死者が出た[12]
戊辰戦争の敗北と北海道開拓

戊辰戦争が起こると、明治新政府から会津藩討伐の命を受けて、軍勢を会津との藩境にまで進めた。しかし、藩政を握っていた家老の但木土佐は筋金入りの佐幕派であり、同じく佐幕派の会津藩と戦うつもりは初めからなく、進軍は形だけのものでそれ以上の行動は起こさなかった。その後は会津藩と交渉を行い、新政府が求めていた「会津藩が全面的に降伏する」ことで合意を得たが、その数日後に会津藩が方針を転換して降伏を拒否した為、仙台藩は面目を失った。この問題に対して奥羽14藩が白石城に集結して話し合いを行った結果(白石会議)、会津藩・庄内藩の赦免を求める奥羽越列藩同盟が結成され、仙台藩がその盟主となった。

会津・庄内両藩の赦免を求める奥羽諸藩の嘆願書は、仙台に派遣された奥羽鎮撫総督府の総督・九条道孝に届けられたが、副総督・醍醐忠敬下参謀世良修蔵が「二月中出陣に先立って大総督に伺った指令に会津藩主・松平容保死罪とあること、また容保が果して真に恭順謝罪を願うとならば、諸国の兵を退け、開城して自ら軍門に来って謝するが至当であるのに、実情を見れば、却って現地交戦の状あるは顕著であるから、決して許容すべきものにあらず」と反対し、それらの意見を受けた九条により却下された。

列藩同盟が手詰まりに陥る中、仙台藩士・姉歯武之進らが世良を殺害するという事件が起きた。世良は新政府による会津討伐の命を形だけのものしていた仙台藩に不満を持っており、融和策に動く仙台藩を批判した為、仙台藩強硬派からの怒りを買っていた。


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