座標: .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯38度09分 東経141度08分 / 北緯38.150度 東経141.133度 / 38.150; 141.133
仙台周辺の地形仙台湾(せんだいわん、英: Sendai Bay)とは、東北地方の太平洋に面した、宮城県石巻市の牡鹿半島黒崎と福島県相馬市鵜ノ尾崎の間の湾である[1][2]。海岸線約130km、湾口部約68km。石巻湾と松島湾の支湾を有する。
概要名取市の砂浜(2020年10月)
仙台湾の海岸のうち、牡鹿半島と松島湾の部分は主にリアス式海岸であり、残りの約70kmは砂浜海岸である。仙台湾に流れ込む旧北上川、鳴瀬川、七北田川、名取川、阿武隈川等の河川から供給される土砂の量が、波浪による浸食量を上回っており、これが長い年月をかけて湾内の海岸を前進させ沖積平野を形成した。5000年前と比べて、石巻市付近で5.5km、仙台市付近で3km、亘理町付近で6kmほど海岸が前進したと考えられている。しかし1965年以降になると海岸の後退も確認された。河川上流部のダムや港湾の建設が影響したと考えられている[3]。七北田川河口の蒲生干潟や名取川河口の井土浦、阿武隈川河口の鳥の海は河川の流路が遷移してできた潟湖で、この砂浜海岸の中にあって特異な環境を作り出している[1]。湾内の沿岸流はおおむね、石巻市付近で東から西へ、仙台市付近で南から北へ流れている[3]。
仙台湾の沖合いには宮城県沖地震の震源ともなっている北アメリカプレートと太平洋プレートとの接面があり、更に沖合いに日本海溝がある。北上山地と阿武隈高地はプレートに押されて出来た褶曲山地が侵食されて出来たものであるが、これら2つの山地に挟まれた仙台湾の部分では、褶曲部分が海底にある。そのため、仙台湾は、最終氷期最盛期には湾の全てが陸地となっていたほど遠浅で、現在も水深50m以浅の遠浅な大陸棚が広がる。
石巻湾は牡鹿半島によっても外洋からのうねりが遮られるため波が穏やかである。松島湾は多島の内海となって波がほとんどない。そのため、サーフィンには不向きであるが、石巻湾と松島湾の砂浜では消波ブロックがなくとも海水浴が出来る。仙台湾南部は、外洋に面した形状であるため、うねりが直接入って波が大きい。このため、消波ブロックがない場所では海水浴が禁止されている一方で、サーフィンには適した地域となっている。
主な漁業資源は、カレイ、マアナゴ、アカガイ、ホッキガイ、ウニ、カキなどである。松島湾のマガキの養殖(内海)、仙台湾南部のノリの養殖(外海、浜辺から2kmほど沖合い)も盛んである。季節により、潮干狩りを楽しめる場所がある。湾沿いに点在している湿地は、全体で日本の重要湿地500の1つに選定されている。
東日本大震災の影響で仙台湾南部に広く泥が堆積したことにより、ガザミの生息数が急増し2015年には全国1位の漁獲量となった[4]。
鯨類が豊富なのも特徴で、春から夏にかけてザトウクジラやシャチなど数多くの種類が現れる。また、湾内ではミンククジラを対象とする調査捕鯨が行われている[5]。 仙台湾には、縄文時代早期後葉以降、多くの貝塚が営まれた。貝塚からは大型のマグロの椎骨等が出土し、外海にいる魚類も漁撈の対象となっていること、また多数の離頭銛が出土することから「突きん棒漁」が行われていたことは確実であり、大型の丸木舟、あるいは舷側に側板をかさ上げした「板綴り舟」の存在が想定されている。石巻市南境貝塚や東松島市里浜貝塚、七ヶ浜町大木囲貝塚等の継続性の高い巨大貝塚からは、イタボガキ等の希少な南海産貝類によって作られた腕輪類が少なからず出土しており、交易の拠点となっていたことが知られる。こうしたことから、仙台湾における縄文貝塚の拠点集落には、大型の舟を係留する施設が付属するものと考えられている[6]。 古代には、陸奥国府・多賀城の外港(国府津;こうづ)として、塩竈津(塩釜港)が発展した。塩竈津は、松島湾内の南部に位置する現在の塩竈市にあり、歌枕となるのみならず、陸奥国の一宮である鹽竈神社などが置かれ、この地域の重要な港であった。 10世紀半ば頃、陸奥国府は現在の仙台市宮城野区岩切辺りに移ったと見られ、多賀国府(たがのこう)と呼ばれるようになる。この場所は奥大道と七北田川が交差する交通の要衝であり、五日市場や冠屋市場という定期市が開かれていた。この頃の七北田川は現在の七ヶ浜町南端に向かって流れていて、その河口港として湊浜があり、七北田川を使った舟運が行われていた。しかし、湊浜が外洋船を容れることができる港だったのか、詳しいことは判っていない。一方、この頃の塩竈津は留守氏の文書に見られることから、港としての機能は維持されていたと見られている[7][8]。 他方、石巻は平安時代から太平洋側の海運と北上川水運の結節地として機能していたかもしれない。奥州藤原氏が栄えた平泉の遺跡で、東海地方で作られた渥美窯や常滑焼が大量に見つかっている。これらの輸送路について、陸路では困難であるから太平洋と北上川を使った舟運によるものだろうと推測されている。もっとも、当時の北上川本流が石巻に注いでいたのかといった不確定の要素もある[9]。 江戸時代になって伊達政宗が仙台に居城を築くと、仙台湾内にある複数の港が仙台藩の外港としての役割を担った。名取川河口の閖上は政宗が仙台開府以前にも用いていた港で、仙台開府後は仙台の城下町が名取川支流の広瀬川近くに作られたことで、城下郊外と直接繋がる港になった[10]。阿武隈川には河口北側に蒲崎湊、南側に荒浜があった。両者共に米の積み出し港であり、蒲崎湊には仙台藩の米が、荒浜には伊達郡や信夫郡、米沢藩の米が集められていた[11]。北上川河口の石巻は、仙台藩の政策で1622年(元和8年)に米蔵が設置され、これ以後、主に江戸へ向けての廻米の集積地、積み出し港として発展した。この頃は白石宗直や川村重吉(孫兵衛)によって北上川の治水工事が行われ周辺の開墾が進んでいった時期でもあった。石巻には仙台藩の蔵だけでなく、盛岡藩の米蔵も建てられ、鳴瀬川と北上川流域各地から米が集まった[12]。 江戸時代前期に水運のための運河が仙台湾沿いにいくつか作られた。最初に作られたのは名取川河口と阿武隈川河口を結ぶ木曳堀[13]である。正保年間(1645年から1648年)に完成していたのは確実で、おそらく元和年間(1615年から1624年)頃に作られたと推定されている[14]。
主な流入河川
旧北上川
鳴瀬川
七北田川
名取川
阿武隈川
主な港
石巻港
仙台塩釜港(特定重要港湾)
仙台港
塩釜港
荒浜港
相馬港
仙台湾の港の歴史