仙台城
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「青葉城」はこの項目へ転送されています。元大相撲力士については「青葉城幸雄」をご覧ください。

logo仙台城
宮城県
外観大手門脇櫓
別名青葉城、五城楼
城郭構造連郭式平山城
天守構造なし
築城主伊達政宗
築城年1601年慶長6年)
主な改修者伊達忠宗
主な城主伊達氏
廃城年1871年明治4年)
遺構石垣、土塁、堀
指定文化財国の史跡
再建造物外観大手門脇櫓
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯38度15分8.92秒 東経140度51分22.16秒 / 北緯38.2524778度 東経140.8561556度 / 38.2524778; 140.8561556 (仙台城)座標: 北緯38度15分8.92秒 東経140度51分22.16秒 / 北緯38.2524778度 東経140.8561556度 / 38.2524778; 140.8561556 (仙台城)
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仙台城(せんだいじょう)は、宮城県仙台市青葉区陸奥国宮城郡)の青葉山にあった日本の城平山城)。雅称は「青葉城」で「五城楼」の別名もある(→仙台参照)。国の史跡[1]1本丸 2二の丸 3勘定所 O三の丸 H大手門
概要

慶長年間に伊達政宗が築城してから、廃藩置県廃城令までの約270年に渡り伊達氏代々の居城であり、仙台藩の政庁であった。二代藩主伊達忠宗の代に完成した仙台城は約2万坪で、大藩にふさわしい大規模な城であった。

地震などによる損害を受けながらも修復を繰り返し、奥羽越列藩同盟盟主として戊辰戦争を経るも、一度も戦火を見ることなく城としての役割を終えて、明治維新を迎えた。その後は明治から大正にかけて陸軍用地となり多くの建築物が解体された。数少ない遺構であった大手門、脇櫓、巽門は国宝(旧国宝)に指定されていたが、第二次世界大戦時の仙台空襲により焼失した。現在では、宮城県知事公舎正門に転用された寅の門の部材が残るのみである。

仙台城跡の土地の権利関係は複雑であり、仙台城跡のうち仙台市が所有している区画(青葉山公園)はごく一部である。戦前の経緯から宮城県護国神社国立大学法人東北大学が所有している区画が多く、現在でも本丸と二の丸の中に境界が存在している。

「青葉城」という雅称を持ち、宮城県護国神社は当地を「青葉城」または「青葉城址」と呼称している。一方、青葉山公園として当地を管理している仙台市は「青葉城(青葉城址)」ではなく「仙台城跡」と呼称している。2003年に国の史跡「仙台城跡」として登録される前は「仙台城址」とも呼称され、現在でも青葉通地下道の案内等に名残がある。このため同一の城跡でありながら複数の案内表記が存在しており、両者を併記する例も見られる。

三の丸にある仙台市博物館の周囲には堀や石垣が見られる。ここから徒歩で青葉山の山道を登っていくと、山頂に築かれた巨大な本丸の石垣が目の前に現れる。本丸からは、東方面に仙台市中心部と仙台平野、天気が良ければ太平洋まで一望することが出来る。北方面の二の丸跡地は現在は東北大学の敷地となっているが、このうち東側の東屋付近とロータリーの北東部分は同大学ではなく仙台市が所有する青葉山公園の飛び地となっている。

また、空襲で焼失した大手門や大手門脇櫓、土塀や明治時代に焼失した本丸御殿、門、櫓、土塀の木造復元計画もある。
歴史

仙台城は近世に伊達家が居城とした城郭である。仙台城ではないが、近世以前にも青葉山には城があったともいわれ、岩切城合戦を記した文書にある「虚空蔵城」は現在の仙台城の場所にあった山城という説もある[2]
近世

伊達政宗は、関ヶ原の戦いの後、徳川家康の許しを得て千代に居城を移すことにした。1600年(慶長5年)12月、政宗は青葉山に登って縄張りを開始[2]。地名を仙臺(新字体:仙台)と改めた。

仙台が新しい本拠地に選ばれた理由として、
仙台付近は陸路は東海道の延長上にある「海道」とかつての東山道に由来する「山道」が合流し、水路は名取川・広瀬川を経由して閖上などの港から太平洋に通じるなど交通の要所であったこと。

岩出山城を居城に定めたのは豊臣政権の伊達氏を封じ込める政策によって一方的に決められた城であったこと。

関ヶ原の戦いの際に徳川家康と約束されたと言われている「百万石の御墨付」が実現されていた場合(置賜郡・伊達郡など7郡が政宗に与えられた場合)、岩出山城は新しい領国の中で北に偏り過ぎていたこと。

が、あったとみられている。新城は関ヶ原の合戦が迫る緊迫化した状況の中で計画が立てられ、千代城(仙台城)以外にも仙台に近い北目城を改築して本拠地にする構想も検討されていた(実際に慶長出羽合戦では北目城に陣が置かれている)。しかし、北目城を本拠地として改築するには時間がかかると判断され、最終的には仙台を新しい本拠地とすることになった[3]

政宗が築いた仙台城は、本丸と西の丸からなる山城であり、天守台はあるが天守は持たなかった。これらの点で時代の流行に背を向けたが、結果として仙台城は、ビスカイノをして「日本の最も勝れ、又最も堅固なるものの一つ」と言わしめるほど、同時代に比類ない堅城となった。

しかし、山上にある本丸は街への往来が不便であった。そのため、伊達忠宗は1638年(寛永15年)に二の丸の造営に着手し、翌年には居所を二の丸に移した[2]。二の丸は本丸と同じく広瀬川の内側にあるが、土地は平坦な場所である。伊達家の当主はここに居住し、政務もここで執られた。時期は不明だが、これと前後して大手門脇、青葉山の麓に三の丸が作られた。これ以降、本丸が使われることは少なくなり二の丸が仙台城の中枢になった。

江戸時代を通じて、仙台城は火災や地震により何度か建物や石垣の一部を失い、その都度再建された。

1646年正保3年)

地震により石垣や櫓に被害[2]


1668年寛文8年)

地震により石垣に被害[2]


1804年文化元年)

二の丸を焼失(1809年(文化6年)に再建)[2]

戊辰戦争でも仙台が戦場になることはなかったため、仙台城は創建以来一度も攻撃を受けずに要塞としての役目を終えた。
近代在りし日の大手門川瀬巴水『仙台 青葉城』(1933年・昭和8年)

1873年明治6年)の「全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方」で仙台城は「存城」とされる[2]

これに先立つ1869年(明治2年)の版籍奉還で仙台城には勤政庁設置[2]1871年(明治4年)には東北鎮台が仙台城を本営にして駐屯。このとき本丸が破壊され、石材と木材が兵舎建設に流用。後に東北鎮台は仙台鎮台と改称。さらに鎮台制が師団制にかわると、第二師団設置。

1876年(明治9年)

明治天皇が行幸[2]


1882年(明治15年)

二の丸で火災が発生[2]。大手門、脇櫓、虎ノ門を除くほとんどの建物が焼失。


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