仙台フィルハーモニー管弦楽団
(Sendai Philharmonic Orchestra)
本拠地の仙台市青年文化センター
基本情報
出身地 日本 宮城県仙台市青葉区錦町1-3-9 仙台市役所錦町庁舎1階
ジャンルクラシック音楽
活動期間1973年 -
公式サイト ⇒仙台フィルハーモニー管弦楽団
メンバー常任指揮者
高関健
指揮者
太田弦
桂冠指揮者
パスカル・ヴェロ
コンサートマスター
神谷未穂
仙台フィルハーモニー管弦楽団(せんだいフィルハーモニーかんげんがくだん、英語表記 Sendai Philharmonic Orchestra)は、杜の都・宮城県仙台市を本拠とするプロのオーケストラである。
略称は「仙台フィル」「仙フィル」。同名の公益財団法人(公益財団法人仙台フィルハーモニー管弦楽団)が運営を担い、事務局が仙台市役所錦町庁舎1階にある。日本オーケストラ連盟の正会員である。
1973年(昭和48年)に宮城フィルハーモニー管弦楽団として発足した組織が、1989年(平成元年)に現在の名称へ変わり、同時に3管編成化したものである[1]。
2019年1月時点で、74名の楽団員がここに所属する、[2]。 宮城フィルハーモニー管弦楽団は1973年(昭和48年)3月に発足した[3]。この時に尽力したのが地元出身者で作曲家の片岡良和である。片岡がバレエの発表会にオーケストラを使いたいと考えメンバーを募集したところ30人ほどが集まった[4]。これらの演奏家が宮城フィルハーモニー管弦楽団の母体となった。その中にはプロもいたがアマチュアがほとんどだった[4]。また、片岡はオーケストラ創設にあたり、札幌交響楽団の事務局に助言を求めたという[5]。宮城フィルハーモニー管弦楽団発足後、片岡は常任指揮者となった[4]。 1974年(昭和49年)に第1回の定期演奏会が開催され、1975年(昭和50年)には運営母体として宮城フィルハーモニー協会が発足した。1978年(昭和53年)には協会が社団法人となりプロオーケストラとなった[3]。この時、山形交響楽団から宮城フィルハーモニー管弦楽団へ何人かの楽員の移籍があった[4]。オーディションで演奏者が募集され、また演奏者の組合への加入で楽団員の待遇改善が図られ、楽団としての形が徐々に整えられていった[4]。しかし、楽団の経営は厳しく、楽団員自らが楽器の運搬をしたり、NHK仙台放送局から楽器を借りたこともあったという[4]。政治家の三塚博の助言で、山形交響楽団と連名で助成金を受けたこともあった[4]。 1983年(昭和58年)には片岡の要請で芥川也寸志が音楽総監督に就き、また籾山和明が常任指揮者に、小林研一郎が首席客演指揮者となって、複数指導者による体制となった[4]。1988(昭和63年)に、宮城フィルハーモニー管弦楽団は上海交響楽団から音楽監督と演奏者を迎えてベートーヴェンの交響曲第9番を演奏した。これについて、マスメディアは事前に大々的に報じたが、市民から事務局への問い合わせの電話は非常に少なく、事務局スタッフは楽団に対する市民の関心の低さを痛感したという[6]。一方で、この年度には大きな赤字を出しながら、楽団員の増員や定期演奏会以外の公演の実施など、積極的な活動が行われた[6]。 1989(平成元年)4月に、仙台市が政令指定都市に移行したのにあわせて、宮城フィルハーモニー管弦楽団は仙台フィルハーモニー管弦楽団へ名を変えた[3]。芥川はこれより前の同年1月に死去したが、生前、仙台フィルハーモニー管弦楽団の名称を提唱していたという[4]。5月に仙台フィルハーモニー管弦楽団は初の東京公演を行ったが、結果的にこれは芥川の追悼公演ともなった[4]。この東京公演は楽団初のCDとなり、日本全国で発売された[6]。1990(平成2年)2月には、仙台フィルハーモニー管弦楽団と札幌交響楽団の初の合同演奏会が行われた。演目はマーラーの交響曲第1番であり、楽員120人編成による大規模な演奏会となった[7]。同年、仙台市青年文化センターが開館し、以後、仙台フィルハーモニー管弦楽団はここで練習及び定期演奏会を開催するようになった。この時、定期演奏会が2日連続開催となった[4]。この当時、待遇がさして良くない地方オーケストラの中でも仙台フィルハーモニー管弦楽団の楽団員への報酬は少ない部類であり、楽団員は学校での指導や結婚披露宴での演奏などで収入を足した[8]。 1992年(平成4年)になると、運営母体の社団法人宮城フィルハーモニー協会から分離する形で、財団法人仙台フィルハーモニー管弦楽団が設置された。社団法人の協会は大きな負債を抱えており、そのまま協会が財団法人になるのは望ましくないと考えられたのである。この後、協会は2001年(平成13年)に解散し、楽団の運営は財団法人に一本化される[4]。 1995年(平成7年)、仙台市で第2回若い音楽家のためのチャイコフスキー国際コンクールが開催されると、仙台フィルハーモニー管弦楽団はそのホストオーケストラとなった[3][4]。2000年(平成12年)には、初のヨーロッパ公演が実現し、楽団はオーストリアのリート、リンツ、ウィーン、フィラッハと、イタリアのローマを巡った[3][4]。2001年(平成13年)からは3年毎に仙台市で仙台国際音楽コンクールが開催されることになった。このコンクールの本選では協奏曲が課題曲であり、仙台フィルハーモニー管弦楽団はコンクールの出場者とこれを共演することになった[3][4]。2009年(平成21年)公開の映画『劒岳 点の記』では、仙台フィルハーモニー管弦楽団が音楽の演奏を担当した[3]。 2011年(平成23年)3月11日の東日本大震災発生時、仙台フィルハーモニー管弦楽団はリハーサルの準備中で、団員は無事、楽器に若干の被害があった。しかし、ホールの損傷などから以後に予定されていた演奏会は中止になった。3月26日、楽団創設者で当時楽団副理事長だった片岡が住職を務める見瑞寺のバレエスタジオで、第1回復興コンサートが開かれ、楽団はバーバーの『弦楽のためのアダージョ』や唱歌『故郷』を演奏した。この後、楽団は常盤木学園高等学校の音楽ホールなどで演奏を続け、同年7月には、楽団の本拠地である仙台市青年文化センターが再び使用可能になった[9]。
沿革