仙北一揆
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仙北一揆(せんぼくいっき)は、天正18年(1590年9月下旬ころ出羽国北部(いまの秋田県地方)の横手盆地(仙北三郡[注釈 1])で発生した、豊臣政権による太閤検地に反対する一揆である。
仙北検地

天正18年(1590年)、豊臣秀吉奥羽地方の諸豪族に対し小田原征伐への参陣を命令した[1]出羽国北部では、仙北三郡北部(北浦郡)の角館城城主戸沢盛安がこれにいち早く呼応し、仙北三郡南部(上浦郡)の小野寺義道とその一族西馬音内茂道、中央東部(中郡)の本堂城の城主本堂忠親、沿岸部の秋田氏由利衆なども参陣したが、秀吉はかれらに朱印状をあたえて所領を安堵した[1][2]。秀吉は新しく服属することとなった地域に対しては、大名小名の旧領をそのまま安堵するのではなく、原則的には、いったん太閤蔵入地としたうえで改めて恩給するようなかたちを採用したが、このような政策を実施していくためにはまず検地をおこなう必要があった(太閤検地[1]上杉景勝

後北条氏を降して関東地方を平定したのち、陸奥国会津黒川城(後の会津若松城)に入った秀吉は、天正18年8月10日、奥羽全域の総検地を命令した[1]8月12日、秀吉は黒川において検地施行に関する4か条の朱印状を発給しており、それによれば「一人も残し置かず、なでぎりに申し付くべく候」「一郷も二郷も、悉くなでぎり仕るべく候」など検地に対する反対には苛烈な処分を認める強硬な姿勢を示した[3]。ただ実際には、それに先だつ7月11日の時点で、越後国の大名上杉景勝に対しては、秀吉家臣大谷吉継を軍監として庄内・最上・由利・仙北の出羽各地の検地を、また、加賀国前田利家らに対しては秋田・津軽・南部の北奥羽各地の検地を、それぞれ命じていた[1][注釈 2]。仙北地方の検地は『上杉景勝年譜』によれば、8月中旬以降には着手されており、戸沢光盛宛の木村重茲・大谷吉継・前田利家連署状によれば、この3名は8月17日ころには小野寺氏領周辺、上浦郡方面にいたものと考えられる[1][4]。上杉景勝とその重臣色部長真もまた、8月10日頃には大谷吉継とともに庄内地方山形県沿岸部)の仕置にあたっていたことより、17日頃には上浦郡にあったと推察される[4]。吉継は横手盆地東部の横手城に入り、景勝は盆地西端の大森城に入った[4]

検地は、棹入れを前提とする指出検地の方法をとり、その基準は「出羽国検地条々」によった[1][4]。指出は、仙北地方の慣例にしたがって苅高(の収穫量を単位としてはかった村高)とし、それを一定の換算率により永楽銭貫高に改め、年貢は銭納とした。しかし、最終的には石高に換算しなおし、他の地方との統一が図られた[1]。諸史料によれば、8月末ころまでには概ね仙北・秋田地域の仕置がすすめられ、実際の検地は9月に実施されたと考えられる[4]。その間、仙北地方においては武具狩りがおこなわれ、城の破却は35か城にのぼった[4]
一揆の発生

9月下旬ころ、検地もひとまず終了し、上杉景勝がそろそろ越後へ帰国しようかという段になって仙北地方と由利地方に検地反対の一揆が勃発した[1]。仙北では諸給人・百姓らが仕置に反対しての蜂起であった。一揆勢力は各所に放火し、増田(横手市増田町)・山田(湯沢市山田)・川連(湯沢市川連町)の古城に2万4,000名余が籠もった[5]。一揆発生の報せを聞いた景勝は、増田を攻撃したのに対し、一揆勢は山田・川連の両城から援兵を出し、防戦に努めた。上杉勢は2,000余の軍兵を川連城付近まで極秘裏に進軍させ、陣貝を合図にして一挙にせめて一揆勢を破った[5]。これにより、川連・山田に籠城した一揆衆が降伏し、一揆はいったん平定された。一揆勃発の背景としては、上述の豊臣政権の土地政策に対し、在地領主の先行き不安感、検地によって一地一作人となって土地支配権や年貢徴収権が失われることへの不満、隠田・焼畑などの摘発にともなって、これらの耕地が課税の対象となったことに対する反感なども考えられる[1]大谷吉継

10月、横手盆地中部の六郷(仙北郡美郷町六郷)において、大谷吉継配下の者が検地のを入れた際、百姓たちがしきりに訴訟し、検地を妨害するので大谷衆はその場で3名を見せしめのため斬殺し、5名を捕縛した[5]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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