この項目では、フランスの海外共同体について説明しています。オセアニアの地域区分については「ポリネシア」をご覧ください。
フランス領ポリネシア
Polynesie francaise
フランス領ポリネシアの旗 フランス領ポリネシアの紋章
公用語 フランス語、タヒチ語
行政所在地 パペーテ
最大都市:パペーテ
大統領 エマニュエル・マクロン
自治大統領 エドワー・フリッチ
フランス領ポリネシア(フランス語: Polynesie francaise)は、南太平洋にあるフランスの海外共同体(Collectivite d'outre-mer、略してCOM:英語:overseas collectivity、海外準県)であり、その中でも海外領邦(仏語:Pays d'outre-mer、略してPOM:英語:Overseas Country)という特別な地位を有している。ポリネシアのいくつかの諸島からなる。
ソシエテ諸島のタヒチ島は、リゾート地として最も有名な島で、フランス領ポリネシアの中心地でもある。タヒチの面積は1,608km2の火山島でオロヘナ山(2,237m)が最も高い山。人口も最大であり、行政所在地パペーテがある。コプラ、ノニ(ヤエヤマアオキ)、真珠母貝、黒蝶貝真珠(黒真珠)、バニラ、果汁、マグロなどを産出する。 現在のフランス領ポリネシアに最初に人類が到達した時期については諸説あるが、5世紀から8世紀頃にはトンガやサモアなどの西ポリネシア
目次
1 歴史
1.1 ヨーロッパ人の侵入以前
1.2 ヨーロッパ人の来航
1.3 バウンティ号の反乱
1.4 フランスによる植民地化
2 地理
3 住民
3.1 言語
4 経済
5 情報・通信
6 交通
7 脚注
8 関連項目
9 外部リンク
歴史
ヨーロッパ人の侵入以前
現在、それらの島々の中でも最も早く発見・植民されたと考えられているのはマルケサス諸島である。古代のポリネシア人たちはマルケサス諸島を東ポリネシア海域の根拠地とし、ここからラパ・ヌイやハワイ諸島、タヒチ島、トゥアモトゥ諸島、アオテアロアなどに拡散していったとの見方が、今のところ最も有力である。 1595年にスペイン人のアルバロ・デ・メンダーニャ・デ・ネイラが南米のペルーから出航し、マルケサス諸島の4島に次々に上陸した。1606年にはポルトガルの航海者がトゥアモトゥ諸島のハオ島に到着している。タヒチ島には、1769年イギリスの航海者サミュエル・ウォリスがヨーロッパ人として初めて来航した。続いて1786年にはフランス人のルイ・アントワーヌ・ブーゲンビルがタヒチ島を訪れており、1769年にはジェームズ・クックもタヒチ島に訪れている。 1788年にクックの元航海長だったウィリアム・ブライ船長のバウンティ号が、西インド諸島の奴隷の安い食料品としてパンノキ採集のためにタヒチ島に訪れている。しかし、そこでバウンティ号の反乱事件が起きる。 パンノキを採取し、タヒチ島から西インド諸島のジャマイカへ向かう途中、航海士フレッチャー・クリスチャンを始めとする、ブライ船長のやり方に対して不満を持っていた十数人の乗組員が太平洋上で反乱を起こしたのである。彼ら反乱者達はバウンティ号を乗っ取って、タヒチ島に戻り、そこでタヒチ人の男女数人を連れてゆき、誰にも見つからない、どこか遠くの無人島に住み着こうとし、1790年に無人の孤島ピトケアン島にたどり着き、住み着いた。 タヒチ島は1791年頃よりポリネシア系のポマレ王朝によって支配されてきたが、1842年に女王ポマレ4世がフランスの圧力に屈し、タヒチ島とモーレア島をフランスの保護領とする条約に署名。1880年のポマレ5世の主権譲渡への署名によりタヒチ島はフランスの植民地となり、以降、フランスは本格的にタヒチ島に進出していった。 第二次世界大戦中にフランス本国がドイツに占領されると、自由フランス側につき、連合国に協力した。 1949年にフランス海外領土に昇格し、1957年に大幅な自治権を獲得。なおムルロア環礁などでは、フランスによる核実験が1996年まで行われていた。 一時自治権の拡大により国連非独立地域リストから削除されたが、ナウル、ツバル、ソロモン諸島によって国連総会に提案され、2013年5月18日に再びリストに掲載されることが決議された。
ヨーロッパ人の来航
バウンティ号の反乱
フランスによる植民地化
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