仏文科
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ベリー公のいとも豪華なる時祷書』フォリオ153v (1412-1416)

フランス文学(フランスぶんがく、フランス語: Litterature francaise)は、フランス国籍の作家もしくはフランス語によって書かれた文学作品の総体である。仏文学(ふつぶんがく)ともいう。その歴史は中世古フランス語に始まり今日まで続いている。ベルギー西アフリカ諸国などフランス国外のフランス語圏文学(fr:Litterature francophone)や、ブルトン語オック語などフランス国内のフランス語以外による文学も存在する。

またそれらの作品や作家を研究する学問も指し、その研究者をフランス文学者(仏文学者)と呼ぶ。
フランス文学史
中世ストラスブールの誓い(842)

フランス語俗ラテン語から派生したロマンス諸語の1つであり、ケルト語古フランク語の強い影響を受けていた。842年ストラスブールの誓いの文書のうちの1つがロマンス語[注釈 1](フランス語の「先祖」)で書かれた知られている限り最初の完全な文書である。今日「文学」と考えられているテクストとして、現存する中で最古のものは『聖ユーラリーのセクエンツィア(もしくはカンティレーナ)』であり、881-882年頃に書かれた。29行からなる宗教・教育的なラテン語詩の単純な翻案であった。

フランス文学の最初の偉大な作品群が出現するのは中世中期の11世紀、侵略・無政府・伝染病の時代の後に農業が発達し、人口が増大した時代であった。

武勲詩は公衆の前で歌われることを目的とした数千行から成る長詩であり、「武勲」(geste)は戦争での功績を意味した。伝説と歴史的事実をないまぜにした叙事詩の形で、過去の戦争での功績を詳しく語り、騎士道的理想を強調した。最も古く最も知られているものは11世紀に書かれた『ローランの歌』であり、シャルルマーニュの軍勢の功績を理想化して語っている。

12世紀に出現した宮廷風恋愛文学(fr:litterature courtoise)はただ1つの、完璧な、そしてしばしば不幸な恋愛の崇拝を主な主題としていた。古代に起源を持ち、十字軍の帰還に伴い東洋の影響を取り込み、ケルト文化からも着想を得ていた。『トリスタンとイズー』の伝説は、恋人たちの死に終わる完全にして果たし得ぬ恋愛を物語る。これらの詩はトルヴェールトルバドゥールたちによって君主たちの宮廷で歌われた。クレティアン・ド・トロワ(1135?-1190?)は恐らく最初のフランス文学の騎士道物語作者であろう。『イヴァンまたは獅子の騎士』『ランスロまたは荷車の騎士』『ペルスヴァルまたは聖杯の物語』などの物語はこの文学ジャンルの典型的な例である。13世紀初頭に始まるアレゴリー的な長詩『薔薇物語』は宮廷風恋愛のテーマを対象とする書き物としては最後のものの1つであり、その短い(4058行)冒頭部はギヨーム・ド・ロリスによって書かれた。ジャン・ド・マンによって引き継がれた残りの部分(約18000行)は対照的に驚くべき女嫌いの諸節(特に「老女」のそれ)を含み、その上社会批評的な議論も織り交ぜられている。薔薇物語』写本(1420-30)、愛の神のロンド

ほぼ同時代、理性を持った動物たちの冒険を語る一群の詩である『狐物語』が書かれた。狐・熊・狼・鶏・猫などがおのおの、不誠実・純朴・悪賢いなどの人間的な性格を持つ。匿名の作者はこれらの詩の中で封建的な価値や宮廷的なモラルを嘲笑した。

フランス語で書かれた年代記の最初のものは12世紀の十字軍の物語である。ジョアンヴィルがサン=ルイの生涯を描いたものなどのように、これらの物語の一部は道徳的な目的を持ち、語られる事実を少々理想化もしていた。百年戦争(1337年 - 1453年)はジャン・フロワサール(1337年 - 1410年?)によって2冊の『年代記』として物語られた。詩人ユスタシュ・デシャンは百年戦争の間の社会と精神構造を証言した。

百年戦争終結後、詩人フランソワ・ヴィヨン(1431年 - 1463年?)はこの時代の混乱と動乱を表現した。高貴な生まれを持つ孤児にして良き生徒であったが、後に窃盗と殺人で断罪された。博識であると同時に大衆的でもあったその作品は、その時代の不正義への反逆を表していた。

中世全期を通して宗教劇が発達し、聖史劇や、クリスマス復活祭キリストの昇天などの宗教的な祭日を上演した。先の文学ジャンルがどちらかと言えば貴族的であったのとは対照的に、宗教劇はより多くの人々を対象としていた。宗教劇とは別に、笑劇と呼ばれる滑稽な劇が15世紀に出現し、宗教的権威からの激しい攻撃を受けた。
16世紀フランソワ・ラブレーガルガンチュワとパンタグリュエル』の一場面。ギュスターヴ・ドレ画詳細は「フランス・ルネサンスの文学」を参照「ルネサンス#フランス」、「人文主義者」、「モラリスト」、および「プレイヤード派」も参照

16世紀はフランス・ルネサンスの世紀であり、ユマニスムの原則が文学に深く痕跡を残すようになる。古代のテクスト(ギリシア語ラテン語ヘブライ語)への回帰、知識欲、明白な享楽主義、中世文学と異なる形式と主題への一新などである。

詩ではクレマン・マロ、ジャン・ド・スポンド、アグリッパ・ドービニェプレイヤード派の詩人(ピエール・ド・ロンサールジョアシャン・デュ・ベレーなど)ほか、重要な詩人が数多く出現した。プレイヤード派が用いたアレクサンドランはフランス詩の代表的な形式となった。

小説では『デカメロン』の影響を受けたマルグリット・ド・ナヴァルの『エプタメロン』と、そして特にフランソワ・ラブレーの哄笑に満ちた5巻本『ガルガンチュワとパンタグリュエル』が重要である。巨人パンタグリュエルは先述のようなルネサンス的人間像を体現していた。

ミシェル・ド・モンテーニュの『エセー』(随想録)は哲学自伝の中間に位置する重要な作品である。『エセー』はフランス最初の自伝の1つでもあり、『エセー』の企図、すなわち自己を知るだけでなく人間そのものを知ろうとするモラリスト的なあり方はフランス文学の伝統となっており、人間をその美質のみならず欠点をも含めて描き出そうとした後のジャン=ジャック・ルソーの『告白』(1776頃)などにも広く見出される。
17世紀アカデミー・フランセーズバロック文学」および「古典主義」も参照

17世紀には2つの競合するが同時に相補いもする、2つの大きな潮流があった。バロック文学古典主義である。ユグノー戦争などの宗教戦争による混乱や、天動説の否定に代表される科学の発達などによる価値観の揺らぎは、自由奔放・不規則・虚無・矛盾などを特徴とするバロック文学を生み、ルイ14世即位の前後を境目に、古代に範を取り調和を主んじる古典主義がこれを置き換えてゆくが、また(ピエール・コルネイユのように)双方の潮流に同時に影響を与えた作家たちもいたので、相補的でもあった。


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