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仏教の東方伝播
仏教公伝(ぶっきょうこうでん)は、国家間の公的な交渉として仏教が伝えられることを指す。上代の日本においては6世紀半ばの欽明天皇期、百済から古代日本(大和朝廷)への仏教公伝のことを指すのが一般的であり、この項でもそれについて説明する。従来は単に仏教伝来と称されたが、公伝以前にすでに私的な信仰としては伝来していたと考えられるため、区別のため「公伝」と称されることが多い。 仏教は、主として東南アジア方面(クメール王朝、シュリーヴィジャヤ王国)に伝播した南伝仏教と、西域(中央アジア)を経由して中国から朝鮮半島などへ広がった大乗仏教(北伝仏教)に分かれる。古代の日本に伝えられたのは、主に北伝仏教である。中国において紀元1世紀頃に伝えられた仏教は、原始仏教の忠実な継承にこだわることなく、戒律や教義解釈などで独自の発展を遂げた。特に4世紀における鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)の翻訳による漢訳仏典の充実は、漢字を共通の国際文字として使用する周辺諸国への北伝仏教を拡大した。南北朝時代には三論宗・成実宗などの経学が流行し、これらの流れがさらに東へ伝播していく。北魏の孝文帝や「皇帝菩薩」と称された梁の武帝など、仏教拡大に熱心な皇帝も現れ、周辺諸国への普及も加速した。 古代、三国に分かれていた朝鮮半島においては、それぞれ各個に仏教が公伝された。最も北にあり、中国に近かった高句麗へは372年、小獣林王の時代に前秦から伝えられたとされる。375年には肖門寺・伊弗蘭寺などが建立された。 大和朝廷と盟友関係となる百済では、これより若干遅れて、384年に枕流王が東晋から高僧の摩羅難陀を招来し、392年には阿?王(阿華王)が仏教を信仰せよとの命を国内に布告している。ただし、百済国内に本格的に仏教が普及するのはそれより1世紀ほど遅れた6世紀初頭である。 残る新羅においては上記2国よりも遅れ、5世紀始めごろに高句麗から伝えられたという。法興王の時代に公認された後は、南朝梁との交流もあり、国家主導の仏教振興策がとられるようになっていた。 古代の日本には、古くから多くの渡来人(帰化人)が連綿と渡来してきており、その多くは朝鮮半島の人間であった。彼らは日本への定住にあたり氏族としてグループ化し、氏族内の私的な信仰として仏教をもたらし、信奉する者もいた。彼らの手により公伝以前から、すでに仏像や仏典はもたらされていたようである。522年に来朝したとされる司馬達等はその例で、すでに大和国高市郡において本尊を安置し、「大唐の神」を礼拝していたと『扶桑略記』にある。
公伝以前の状況
朝鮮三国における仏教受容
渡来人による私的崇拝
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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