今 陽子
出生名今津陽子
別名ピンキー
生誕 (1951-11-01) 1951年11月1日(72歳)
出身地 日本 愛知県横須賀町(現:東海市)
ジャンルポップス
職業歌手
担当楽器歌
活動期間1967年 -
事務所パオ
共同作業者ピンキーとキラーズ
公式サイト
ホリプロ公式プロフィール
今陽子オフィシャルブログこん ようこ
今 陽子プロフィール
愛称ピンキー
生年月日1951年11月1日
現年齢72歳
出身地 日本・愛知県
血液型A型
公称サイズ(時期不明)
身長 / 体重167 cm / ― kg
単位系換算
身長 / 体重5′ 6″ / ― lb
活動
デビュー1967年
ジャンル女優、歌手
モデル内容一般
モデル: テンプレート - カテゴリ
今 陽子(こん ようこ、1951年11月1日 - )は、日本の歌手、女優。所属事務所はホリプロ系列のパオ。本名、今津 陽子(いまづ ようこ)。身長168cm(1975年7月)[1]。
略歴(2009年死去)[3]。両親が元々音楽好きだった影響で、幼少期より洋楽に造詣を深める[4]。
1964年、金城学院中学校に入学。1年生のときは宝塚歌劇団に憧れる。「男役をやりたい、那智わたるさんみたいになりたい、と真剣に考えたこともある」とのちに述べている[5]。「中学卒業後に宝塚音楽学校を受験しよう」と考えていたが[4]、2年生のときスカウトされ、東京へ移住。1966年、いずみたくに師事。1967年、15歳でビクターレコードよりソロ歌手として「甘ったれたいの」でデビューしたが全く売れなかった。
1968年、キングレコードに移籍し、ピンキーとキラーズを結成。同年7月20日に発売されたデビューシングル「恋の季節」[6]が、240万枚という大ヒットとなった[7][注釈 1]。
翌年発売の「涙の季節」も続いてオリコン1位を獲得。主演として映画「恋の季節」(1969年、松竹)も製作された。1972年ピンキーとキラーズからソロに転向。近年は歌手活動のほかにも女優業に進出し、ドラマ、舞台などで活躍中。
1981年3月から1982年2月の間、ダンス、歌、英会話等の勉強のため、単身ニューヨークへ留学。ブロードウェイのミンスコフ劇場で「SAYONARA」の主役オーディションを受け、合格するが、ミュージカルそのものが上演されなかったため、出演には至らず。
2011年11月には、ジャズアルバム「Love Seasons?恋の季節たち?」を発表。2012年7月には ⇒旭ジャズまつりにも出演。
21世紀にはFacebookを使用。「60歳からのフェイスブック」(マイナビ)という著書もある。 母は、若い頃にコロムビア全国歌謡コンクールで優勝経験があった[4]。父は、ギターやハーモニカが得意で若い頃にバンドを組んでいた。今は、子供の頃からバーブラ・ストライサンド、ライザ・ミネリ、ベット・ミドラーなどの洋楽を好んで聴いていた[4]。 父は、当時先述のPOP広告の仕事をしながら、日本の有名歌手[注釈 2]が名古屋でコンサートをする際の司会も時々行っていた[4]。中学2年生の頃に上記のコンサート会場でいしだあゆみのマネジャーからスカウトされ、いしだの所属先であるいずみたくの事務所への所属が決まった[注釈 3]。 当時「背の高い女性歌手は売れにくい」というジンクスがある中、1966年に今と同じくらいの身長の山本リンダが「こまっちゃうナ」でヒットしていた。今もこの流れに乗せられて、1967年に“ぶりっ子風”アイドル路線による「甘ったれたいの」でのデビューが決まった[4]。ただし本人は「私には肌が合わなかった」[注釈 4]ということもあり、この曲はヒットしなかった[注釈 5]。 上記のことに加え、同じ事務所の佐良直美が「世界は二人のために」で売れたことに、強い挫折感を味わった[4]。後日傷心して愛知の実家に帰ったが母親から叱られて奮起し、一晩だけ泊まって東京に戻り歌手を辞めずに済んだ[注釈 6]。ちなみに佐良とはサバサバした性格同士で馬が合い、仲は良かった[4]。
エピソード
子供時代
デビュー時
人物
ピンキーとキラーズ以前のソロ時代、いずみたく経由で依頼されたCMソングを歌っており、その数40本以上にのぼる[8](一例として三共のルル[注釈 7]、ハウス食品のバーモントカレー、雪印の冷凍食品、ナショナルの電化製品など[8])。
ピンキーとキラーズ以前のソロ時代、フジテレビ系ドラマ「グー・チョキ・パー」に出ていた。当時デカベビーの愛称で親しまれていた。
映画「恋の季節」では主演としてクレジットとされているが、共演の奈美悦子のラブストーリーとして展開されており、ストーリー上の実質的主演は奈美。今は奈美の友人である歌手・ピンキーとしての出演。
1973年に制定された太平洋クラブライオンズの球団歌『君こそライオンズ』の創唱者だった。一般公募による曲で、入選発表では歌唱指導も行い、球場内でも流されていたが、レコードとしては発売されず、更に翌1974年から西郷輝彦の歌唱のバージョンに切り替えられた(こちらはシングル盤として発売された)。
後輩の和田アキ子とは50年来に渡る親友の間柄である。音無美紀子も40年来の親友である。
イケメン好きを自称している[9]。「イケメン会」という会をつくり、毎月1回ぐらいのペースで飲み会を開いている。男性は20代から40代のイケメン男性たちで、若い男性たちからエキスをもらっている。
現在(2022年)の夢は、男性ヒップホップグループのBTSと一緒のステージに立つこと。
先述の通り一時宝塚を目指したことや女性にしては身長が高いことから、仕事で共演する若い芸能人などから元タカラジェンヌと間違えられることがよくあるという[4]。