今西錦司
[Wikipedia|▼Menu]

今西 錦司1956年
人物情報
全名今西 錦司
(いまにし きんじ)
生誕 (1902-01-06) 1902年1月6日
日本 京都府
死没 (1992-06-15) 1992年6月15日(90歳没)
出身校京都帝国大学農学部卒業
学問
時代昭和戦前期 - 平成初期
学派今西グループ
研究分野生態学
文化人類学
研究機関京都大学
日本モンキーセンター
岡山大学
岐阜大学
主な指導学生伊谷純一郎
河合雅雄
学位理学博士(京都帝国大学、1939年)
称号従三位
勲一等瑞宝章
文化勲章
文化功労者
主な業績棲み分け理論の提唱
影響を
受けた人物可児藤吉(共同研究者)
影響を
与えた人物西田利貞
主な受賞歴朝日賞
テンプレートを表示

今西 錦司(いまにし きんじ、1902年明治35年)1月6日[1] - 1992年平成4年)6月15日[1])は、日本の生態学者、文化人類学者、登山家京都大学名誉教授岐阜大学名誉教授。位階従三位。日本の霊長類研究の創始者として知られる。理学博士京都帝国大学・1939年)。京都府出身[1]

今西の活動は登山家、探検隊としてのものと、生態学者としてのものがあり、彼の中では両者が不可分に結びついている[2]探検家としては国内で多くの初登頂をなし、京都大学白頭山遠征隊の隊長などを務めた。生態学者としては初期のものとしては日本アルプスにおける森林帯の垂直分布渓流の水生昆虫の生態の研究が有名である。後者は住み分け理論の直接の基礎となった。第二次大戦後は、京都大学理学部人文科学研究所ニホンザルチンパンジーなどの研究を進め、日本の霊長類学の礎を築いた。墓所は上品蓮台寺
略歴
学歴

1920年3月
京都府立第一中学校卒業

1925年3月 第三高等学校卒業

1928年3月 - 京都帝国大学農学部農林生物学科卒業[3]

1939年12月 - 「日本渓流産蜉蝣目」で京都帝国大学より理学博士の学位を取得[4]

職歴

1933年3月 -
京都帝国大学理学部講師嘱託

1936年5月 - 京都帝国大学理学部講師

1938年

8月 - 京都帝国大学内蒙古学術調査隊


12月 - 京都探検地理学会

1939年6月 - 興亜民族生活科学研究所研究員

1941年(夏) - ポナペ島探検

1941-1942年頃 - 国防科学研究所

1942年

5月-7月 - 北部大興安嶺探検

京都高等蚕糸学校非常勤講師


1943年 - 民族学研究所嘱託

1944年 - (蒙古善隣協会)西北研究所所長

1948年4月 - 京都大学理学部講師(有給)

1950年4月 - 京都大学人文科学研究所講師

1952年8月 - マナスル踏査隊長

1955年5月 - 京都大学カラコルム・ヒンズークシ学術探検隊隊長

1956年1月 - 日本モンキーセンター設立

1958年2月 - 日本モンキーセンターアフリカ類人猿学術調査隊隊長

1959年6月 - 京都大学人文科学研究所教授

1961年10月 - 第一次京都大学アフリカ類人猿学術調査隊隊長

1963年5月 - 第二次京都大学アフリカ類人猿学術調査隊隊長

1964年9月 - 第三次京都大学アフリカ類人猿学術調査隊隊長

1965年

4月 - 京都大学退官

5月 - 岡山大学教養部教授


1967年

4月 - 京都大学霊長類研究所設立

6月 - 岐阜大学学長(第4代)[5]


1973年

5月 - 岐阜大学退職

6月 - 岐阜大学名誉教授


1974年6月 - 京都大学名誉教授

学外における役職

1971年10月 -
日本山岳会岐阜支部長(初代)

1973年5月 - 日本山岳会会長(1977年4月まで)

生態学者として
概要

今西錦司は、生態研究を出発点とした独自の動物社会学や進化論を掲げ、後の生態学や動物行動学に対して様々な影響を与えたと考えられている。今西の学説は年代によって少しずつ変化しており、学説研究もないので総体を把握するのは困難である。しばしば上山春平のように、今西の説を日本独自の進化論という形で取り扱うマスコミ、人文系の研究者が多いが、アスキスによれば実際には、1920年代および30年代における欧州の動物社会学で優勢であった、進化の所産が決定される際には生物学だけではなく、社会学的な分析も重要であるというアイデアと、米国での動物の集団と協力に関する研究に基づいている。そういった西洋の研究に部分的な影響を受けつつ、西田幾多郎ヤン・スマッツなどの全体論に基づいた認識論から、森下正明や可児藤吉などとディスカッションの中で生まれた[6]自身の研究手法を表現する言葉を借りて書かれたのが、1941年の『生物の世界』である[7]。この中で今西は生物にとっての環境を「その生物が認識し同化した世界である」とし、それを「生活の場」と呼んだ[8]:16。チャールズ・ダーウィンは環境から生物への働きかけを選択圧として捉えた一方で、今西は生物からの環境の認識を「主体性」と名付けた[8]:16。山極寿一はこれをヤーコプ・フォン・ユクスキュルの「環世界」に類似した概念であると指摘している[8]:16[9]。今西がユクスキュルのこの概念を引用して論じることはなかったが、両概念の類似性には気づいていた可能性が指摘されている[8]:16。ユクスキュルの研究対象が個体の認知や行動であったのに対して今西は社会の秩序に着目していたが、これは今西の研究領域が生態学であったためであると山極は推測する[8]:17。

「今西説」によると、生理・生態がよく似た個体同士は、生活史において競争と協調の動的平衡が生じる[10]。この動的平衡状態の中で組織されたものが実体としての種であり、今西が提唱する種社会である。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:62 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef