今村昌平
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いまむら しょうへい
今村 昌平
キネマ旬報社『キネマ旬報』第359号(1963年)より
別名義イマヘイ
生年月日 (1926-09-15) 1926年9月15日
没年月日 (2006-05-30) 2006年5月30日(79歳没)
出生地 日本東京府東京市
職業映画監督
脚本家
映画プロデューサー
ジャンル映画日本映画
活動期間1951年 - 2002年
配偶者あり
著名な家族長男天願大介
次男:今村ч
主な作品
にっぽん昆虫記
神々の深き欲望
復讐するは我にあり
ええじゃないか
楢山節考』(1983年)
黒い雨
うなぎ
カンゾー先生

 受賞
カンヌ国際映画祭
パルムドール
1983年楢山節考
1997年うなぎ
フランス映画技術高等委員会賞
1989年黒い雨
日本アカデミー賞
最優秀監督賞
1980年復讐するは我にあり
1990年黒い雨
1998年うなぎ
最優秀脚本賞
1990年『黒い雨
会長特別賞
2007年
ブルーリボン賞
監督賞
1963年『にっぽん昆虫記』
1979年『復讐するは我にあり』
脚本賞
1963年『にっぽん昆虫記』
新人監督賞
1958年『盗まれた欲情』
特別賞
2006年
その他の賞
毎日映画コンクール
監督賞
1963年『にっぽん昆虫記』
1967年人間蒸発
脚本賞
1968年神々の深き欲望高崎映画祭
最優秀作品賞
1989年『黒い雨』

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今村 昌平(いまむら しょうへい、1926年大正15年〉9月15日 - 2006年平成18年〉5月30日)は、日本映画監督脚本家映画プロデューサー、日本映画学校(現:日本映画大学)の創設者。同姓同名の別人で映画関係者(小道具関連)がいる。日本映画監督協会会員。
人物

カンヌ国際映画祭で2度の最高賞を受賞した日本を代表する映画監督の一人。松竹日活を経て、独立プロダクションの株式会社今村プロダクションの代表取締役を務めていた。映画監督の長谷川和彦は正社員として所属した[1]

性格的には家父長志向が強く、そのことは一面では教育者としての顔も持ち合わせ、長谷川和彦を育て、映画人を育成する横浜映画専門学院を創立、後に日本映画学校となり、日本映画大学の母体となった。撮影所システムが1970年代に崩壊して、映画会社が人材育成をやめて以降の人材供給の役割を果たしていくことになった[2][3]

家族は妻と2男1女。脚本家で映画監督の天願大介は長男、今村プロダクション代表取締役の今村ч(いまむら ひろすけ、1963年3月22日 - )は次男にあたる。50年余の映画監督人生の中で、20作品を監督している。妻は1970年代に近所の主婦を集めて『あしたのジョー』『サザエさん』『タイガーマスク』などのアニメの彩色と仕上げを行う下請けの仕事をして、今村が劇映画を撮れなかった10年間の家計を支えた[4]

今村昌平作品は重喜劇と言われ、これは今村を象徴する言葉で、もともとは軽喜劇をもじった今村による造語である[5]。作風は自然主義リアリズムで、脚本執筆の際には徹底した調査を行った[6][7][8]。『赤い殺意』では宮城県の12家族を調査し[9]、『にっぽん昆虫記』は売春婦とその斡旋業者に取材したノートは3冊になり、『エロ事師たちより 人類学入門』のためにブルーフィルム制作者に実際に取材した[10]。その調査魔ぶりは『復讐するは我にあり』の映画化の際にも発揮され、原作者の佐木隆三を驚かせた[11]。撮影にあたっては基本的にオールロケが原則で、俳優もスタッフもロケ地で長期間の合宿生活をして暮らしながら撮影するスタイルを取っており、俳優の掛け持ち出演も許さなかった[12][13]。鬼のイマヘイと言われる妥協のない粘りの演出で、アフレコを嫌って臨場感のある同時録音にこだわった[14][15]

独立プロによる映画製作であり、自分の家を抵当に入れ製作資金捻出しているため、制作費を回収して抵当権を解除するまで3年ほどかかるため、発表ペースは3年に1度となっていた[16]。倹約家として知られ、フィルムはどんどん使ったが、映画制作費を減らす事の為ならなんでもしたと言われている。おごるのもラーメンくらいだったという[17]。不用意に電話を使う事すら許されず、電話代を節約するためハガキでのやり取りを奨励していた。

趣味は麻雀[18]。相撲取りクラスの非常に大食いであり[18][19]松竹大船撮影所ではどんぶり飯を2杯食べる新人というので評判だった[20]。しかしその旺盛な食欲が災いして29歳で糖尿病となる[21]。糖尿病治療でよくテニスをやってスタッフにもつきあわせていた[22]。晩年は高齢に加えて糖尿病の影響でエネルギッシュだった今村はめっきり無口になった[23]。ヘビースモーカーだったが、禁煙した[18]

今村が松竹から日活へ移籍した後、今村の師匠である川島雄三が同じく日活に移籍、また監督試験で「松竹に落選」した浦山桐郎鈴木清順監督の計らいで日活入所となった。川島は幕末太陽傳での製作にかかる予算配分を巡って日活と対立し、結局日活を去るが、今村は日活に残り、『にっぽん昆虫記』、『赤い殺意』などの製作を行なう。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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