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凡例今川 貞世
菊池容斎『前賢故実』
時代鎌倉時代後期 - 室町時代
生誕嘉暦元年(1326年)
死没応永27年8月28日(1420年10月5日)?
改名貞世、直氏、了俊(法名)
別名六郎(通称)、徳翁
戒名海蔵寺徳翁了俊
墓所静岡県袋井市海蔵寺
官位左京亮、伊予守
幕府室町幕府侍所頭人・山城守護
→引付頭人→九州探題
→遠江・駿河半国守護
主君足利尊氏→義詮→義満
氏族今川氏
父母父:今川範国
兄弟範氏、貞世、氏兼、仲秋
妻正室:土岐頼雄の娘
子貞臣、名和貞継
今川 貞世(いまがわ さだよ)は、鎌倉時代後期から南北朝・室町時代の武将、守護大名。室町幕府の九州探題、遠江、駿河半国守護。九州探題赴任中は備後、安芸、筑前、筑後、豊前、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩の守護も兼ねた。歌人としても名高い。法名は了俊(りょうしゅん)で、今川了俊と呼ばれることも多い。没年は異説あり。『難太平記』の著者である。 幼少時は不明だが、父に従っていた記録は残り、12、13歳頃から和歌を学ぶ。足利将軍家内部の対立から室町幕府初代将軍足利尊氏と弟の足利直義の両派の抗争へ発展した観応の擾乱においては、父と共に将軍側に属する。直義派や南朝勢力と戦い、正平10年/文和4年(1355年)には細川清氏と共に東寺合戦で戦う(『難太平記』)。 室町幕府執事となった清氏が正平16年/延文6年(1361年)に失脚して南朝に下ると、父の命で講和呼びかけの為に遠江から召還される。軍事活動のほか、遠江や山城の守護職、幕府の侍所頭人、引付頭人などを務め、正平22年/貞治6年(1367年)に2代将軍足利義詮が死去すると出家。 3代将軍足利義満時代の建徳元年/応安3年(1370年)頃に、管領の細川頼之から渋川義行の後任の九州探題に推薦され、正式に任命された。観応の擾乱後に南朝方の菊池武光が征西大将軍懐良親王を奉じた征西府、尊氏の庶子(直義の養子)である足利直冬等が分立し、征西府が筑前の少弐頼尚を撃破して大宰府を占領し、南朝勢力が強くなっていた九州の平定のために派遣される。 本国・遠江で準備をした後、10月に京都を出発、建徳2年/応安4年(1371年)5月に安芸に留まり、毛利元春、吉川経見、熊谷直明、長井貞広、山内通忠 了俊は周防・長門の大内弘世、義弘父子等の協力も得て新興の国人勢力と連絡し、阿蘇惟村の協力を得て豊後に嫡男の貞臣を田原氏能と共に豊後高崎山城に入り込ませ、弟の仲秋は松浦党の協力を得て肥前から大宰府を攻め、了俊自身の兵は豊前から大宰府を攻めた。文中元年/応安5年(1372年)6月には懐良親王、菊池武光等を筑後高良山(福岡県久留米市)から菊池氏本拠の肥後隈部城まで追い、南朝勢力から大宰府を奪回し、北朝方の拠点とした。 この後戦局は肥後へ移り、文中3年/応安7年(1374年)7月、水島まで出兵した。天授元年/永和元年(1375年)、水島での会戦に備えて勢力結集をはかり、九州三人衆と呼ばれる豊後の大友親世、筑前の少弐冬資、大隅の島津氏久らの来援を呼びかけた。三人衆のうち唯一九州探題と対立していた少弐冬資は着陣を拒んだが、島津氏久の仲介で来陣した。水島の陣において了俊は宴の最中に冬資を謀殺する挙に出た。この水島の変により氏久は離反して帰国、島津氏は了俊の九州経営に抵抗するようになった。また、大友親世も探題に対して嫌疑を抱き、了俊への支援を止めてしまった。永和2年に出された今川了俊の自筆書状(九州国立博物館蔵)[1] 九州の有力大名の離反によって一転して窮地に陥った了俊は、同盟関係にあった大内氏に協力を要請する。これに対して大内弘世は難色を示したが、子の義弘は了俊を支持し、九州に援軍を派遣している。また、大内氏と婚姻関係のあった大友親世も消極的ではあったが北朝方に帰順した。水島の変から2年後の天授3年/永和3年(1377年)には菊池武朝・阿蘇惟武ら南朝勢力と肥前蜷打で激突。戦いは北朝方の大勝に終わり、南朝方の有力武将を多数討ち取った(肥前蜷打の戦い
生涯
畿内での活動
九州平定
蜷打の戦い以降、了俊は再び南朝方に対する攻勢を強め、弘和元年/永徳元年(1381年)には武朝を本拠地隈部城から追放している。南九州に下った氏久と甥の島津伊久に対しては5男の満範を派遣して南九州国人一揆を結成させ、弘和元年10月に帰順させている。