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凡例今川 義元
今川義元、浮世絵(歌川国芳)
時代戦国時代
生誕永正16年(1519年)
死没永禄3年5月19日(1560年6月12日)
改名今川芳菊丸(幼名)→ 栴岳承芳(法号)→ 今川義元
別名渾名:海道一の弓取り
戒名天沢寺殿四品前礼部侍郎秀峰哲公大居士
天澤寺秀峯哲公
墓所
愛知県豊川市の大聖寺(胴塚)
愛知県豊明市の桶狭間古戦場伝説地
愛知県豊明市の高徳院
今川 義元(いまがわ よしもと)は、戦国時代の武将。駿河国および遠江国の守護大名・戦国大名。今川氏第11代当主。姉妹との婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義理の兄弟にあたる。「海道一の弓取り」の異名を持つ東海道の広大な地域の支配者[2]。姓名は源義元。
寄親・寄子制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも才覚を発揮して今川氏の戦国大名への転身を成功させた。所領も駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで領土を拡大させた。戦国時代における今川氏の最盛期を築き上げるも、尾張国に侵攻した際に行われた桶狭間の戦いで織田信長軍に敗れて毛利良勝(新助)に討ち取られた。 永正16年(1519年)、今川氏親の三男として生まれる[注釈 2]。母は父の正室である中御門宣胤の娘(寿桂尼)。ただし、義元は本来は側室の子で花倉の乱後に寿桂尼と養子縁組をしたとする説もある(後述)。生まれた時は既に跡継ぎとして、同母兄の氏輝、および彦五郎がいたために4歳で仏門に出され[注釈 3]、駿河国富士郡瀬古善得寺
生涯太平記英勇伝三:今川治部大輔義元(落合芳幾作)
内乱と家督相続
その後、氏輝の命を受けて京都から駿河に戻るが、その直後の天文5年(1536年)に氏輝が急死する。この時点ではまだ兄の彦五郎がいたために継承権はなかったが、彦五郎までもが氏輝と同日に死亡したために継承権が巡ってきた。氏輝・彦五郎と同じ寿桂尼所生であることも後押しとなり、重臣たちから還俗を乞われた承芳は主君であり本流に当たる征夷大将軍・足利義晴から偏諱を賜り、義元と名乗った。[注釈 6]だが当主継承は有力家臣の福島(くしま)氏の反対で混迷化し、最終的に福島氏は自家の血を引く義元の異母兄・玄広恵探を当主として掲げて反旗を翻した(花倉の乱)。
恵探側は今川館に攻め寄せる等攻勢をみせたが太原雪斎・岡部親綱ら義元側の家臣団の奮戦の前に苦戦が続いた。加えて義元が伊豆国(静岡県伊豆半島)・相模国(神奈川県西南部)を領する後北条氏からの支援を得ることに成功すると一層敗色は濃厚となり、花倉城の陥落を以って恵探は自害した。内乱を鎮めて家督相続を果たした義元は今川氏当主となり、自らに忠義を示した家臣を重用して支配体制を整えた。
統治初期の事績戦国時代の甲信越
天文6年(1537年)2月、氏輝期まで抗争状態にあった甲斐国の守護・武田信虎の娘(定恵院)を正室に迎え、武田氏と同盟を結ぶ(甲駿同盟)。周囲の守りを固めんとして行われた甲駿同盟の成立は、結果的に旧来の盟友(駿相同盟)として自らの当主継承にも助力した北条氏綱の怒りを買い、同年同月、北条軍は駿河国富士郡吉原に侵攻した(第一次河東一乱)。花倉の乱による内部対立を引き摺ったまま家臣団の統制がとれなかった今川軍は、北条軍に対して適切な反撃が行えず河東(現在の静岡県東部)を奪われてしまう。